第十五話第三章
番組の二回目、三回目と収録を重ねるごとに、現場の空気は落ち着いていった。初回は誰もが探り探りで、スタッフも萌の進行ぶりを見守る姿勢が強かったが、回数を重ねるうちに彼女が話のリズムを掴み、ゲストとの掛け合いも自然に流れるようになってきた。カメラの前で肩の力を抜けるようになったのだろう。笑い声の中に、余裕の響きが混じるようになった。
視聴率も安定し、局内での評価も上々だと耳にする。SNSでも好意的な感想が繰り返し流れ、若い世代を中心に「毎週見ている」と言う声が増えた。冠番組としては、まず順調な立ち上がりと言っていい。
私も机に広げたスケジュール帳に、安堵をにじませる日が増えた。番組一本が定着することの難しさを知っているからこそ、この状況は貴重だ。
だが、順調さは時に不安を連れてくる。ある収録の帰り、楽屋を出た萌がふいに歩みを止めた。
「ねえ、叢さん」
「どうした」
「最近、私……慣れてきちゃった気がする」彼女は困ったように笑い、バッグの紐を握りしめた。
「前は全部が新しくて、緊張しっぱなしだったのに、今は流れも分かってて、ちゃんと笑えるし、進行もできる。でも……それって“ただ慣れただけ”なんじゃないかな」
私は答えを急がず、少し間を置いてから口を開いた。「慣れることは悪いことではない。だが、君が言うように“ただ”慣れるだけでは危ういな」
萌は私の横顔を覗き込みながら、うん、と小さく頷いた。
それ以来、彼女は収録後にしばしば自分の進行を振り返るようになった。楽屋でモニターを再生し、笑いの間や声のトーンを確認しては、小さく唇を噛む。
「ここ、もう少し突っ込めば良かったかな」
「ゲストの話を引き出せてないかも」自分を疑う声が増えていった。
私はあえて多くは口を出さなかった。本人が気づき、考える時間は無駄ではない。ただ、時折だけ補足をする。
「今は“できているかどうか”を気にしているが、次に必要なのは“どこまで広げられるか”だ」
「広げる……?」
「例えば、進行だけでなく、自分の言葉で番組の色を作ること。そうすれば、“藤崎萌の番組”になる」
彼女は深く息をつき、真剣な表情でメモ帳を取り出した。
だが、番組が定着するにつれ、周囲の期待も膨らむ。局からは新企画の提案が次々に舞い込み、ゲストの顔ぶれも豪華になっていった。その中で、萌の「慣れ」が彼女自身を縛りはじめた。
ある回では、大御所俳優がゲストに登場した。撮影前、控室で萌は緊張を隠せずにいた。
「私、ちゃんとできるかな……相手が大物だと、言葉を選びすぎちゃって」
「考えすぎなくていい。敬意を忘れずに、普段通りでいい」そう告げたが、本番では萌の笑顔に硬さが残った。彼女の持ち味である自然な軽やかさが影を潜め、番組の空気も少しぎこちなく流れてしまった。
収録後、スタッフの一人がぽつりと言った。
「萌ちゃん、今日はちょっと固かったね」悪意のない言葉だったが、萌の表情は曇った。
帰り道、彼女は沈黙を続けていた。夜風に髪を揺らしながら、ようやく口を開く。
「私、怖いのかもしれない」
「何が」
「“私らしさ”がなくなっちゃうのが。慣れるのは良いことだと思ってたけど、慣れたら逆に自分が薄くなっていく気がして……」彼女の声は小さく、消え入りそうだった。
私は歩みを止め、少し考えてから言葉を選んだ。
「薄くなるかどうかは、君が決めることだ。慣れることで余裕が生まれる。なら、その余裕を何に使うかが大事なんだ」
「……余裕を、何に」
「視聴者をもっと楽しませるために使うのか、自分を守るために使うのか。どちらを選ぶかで、君の番組は変わる」
萌はしばらく黙り、やがて小さく笑った。
「やっぱり叢さんはズルいな。難しいこと言わないで、でも逃げ道もくれない」
「私は考えを述べているだけだ。選ぶのは君だ。」そのときの萌の笑顔には、不安と同時にわずかな決意が混じっていた。
番組は定着しつつある。数字も好調で、周囲の評価も揺らぎはない。だが、その裏で彼女は新しい壁に向き合い始めていた。
「慣れ」と「らしさ」。その狭間で、萌は悩み、模索を重ねている。
私はマネージャーとして、前に出て答えを示すことはしない。だが傍で考え続ける。彼女が道を誤らぬよう、支えるために。数字では測れない迷いをどう乗り越えるか――それこそが、彼女にとっての次の試練であり、私にとっての課題でもあった。
―――ある番組撮影時―――
その日の収録は、料理をテーマにした企画だった。ゲストは人気の若手俳優。バラエティ慣れしているわけではなく、やや緊張気味の様子でキッチンに立っていた。
リハーサルまでは順調だったが、本番で小さなハプニングが起きた。俳優がフライパンを傾けすぎ、ソースを床にこぼしてしまったのだ。スタジオの空気が一瞬で凍る。俳優は慌ててタオルを手にしたが、顔は真っ赤になり、言葉を失っていた。私はカンペを持つスタッフを見やったが、指示は飛ばない。誰もが「どう収めるか」を測りかねていた。
そのとき、萌が声を上げた。
「わっ、大洪水だ!」彼女は慌てる俳優からタオルを受け取り、笑いながら床を拭きはじめた。
「でも大丈夫、私もこの前カレーぶちまけたから!キッチンはこういうのが日常茶飯事なんですよね~」大げさに肩を竦めて見せると、スタジオに笑いが広がった。固まっていた俳優も思わず吹き出し、緊張が解けていく。
その後の進行は、最初から台本にあったかのように滑らかだった。萌が「失敗は隠すんじゃなくてネタにしちゃいましょう!」と軽口を叩くたびに、観客席の笑い声が響いた。
私はモニターの前で腕を組みながら、その様子を見つめていた。彼女が恐れていた「慣れ」は、決して悪いものではない。慣れによって余裕が生まれたからこそ、瞬時に機転を利かせ、空気を立て直せたのだ。
収録が終わった後、楽屋に戻った萌は汗を拭きながら私を見た。
「やっちゃったね、私……」
「やったのは俳優だ。君は助けただけだ」そう答えると、彼女は照れ笑いを浮かべた。
「でも、なんか分かった気がする。慣れるって、怖いことじゃないんだね。余裕があるからこそ、ああやって動けたんだ。」私は黙って頷いた。それ以上の言葉は不要だった。
その日の収録で、萌は一つの壁を越えた。「らしさ」を失うのではなく、余裕を自分の色に変えること。彼女がそのことに気づいた瞬間を、私は確かに見届けたのだった。
料理番組のハプニングをきっかけに、萌は一段階成長した。収録現場では余裕を持って立ち回り、共演者やスタッフからの信頼も厚くなっていった。視聴率も安定し、番組はゴールデン枠への昇格を検討されるほどだった。
――順風満帆。誰もがそう思っていた。私でさえも。




