第十五話第一章
午後の事務所は、淡い光に包まれていた。窓の外では都会の喧騒が遠く響き、ビルの谷間を抜ける風がわずかにブラインドを揺らす。
大森叢はデスクに向かい、パソコンの画面に走るスケジュール表とにらめっこをしていた。書き込まれた数字やメモはびっしりと並び、無駄な隙間はほとんどない。テレビ局からのオファー、雑誌の撮影、地方イベントの出演依頼。どれも「今」の彼女を求める声だった。
その「彼女」――藤崎萌。
グラビアアイドルとしてデビューしてからまだ数年。だが今や雑誌の表紙を飾るのは当たり前、バラエティ番組にも引っ張りだこの存在となっていた。きっかけを作ったのは、大森の手腕だと周囲は口を揃える。派手に見せるより、少しずつ積み上げていく。その計算の冷静さと確実さが、藤崎萌を「一時の流行」ではなく「確かな名前」へと押し上げた。
事務所のドアがノックもなく開き、明るい声が飛び込んでくる。
「叢さん、ただいまー!」萌がスタジオ撮影から戻ってきたのだ。肩までの栗色の髪がゆるく揺れ、鮮やかなワンピースが彼女の笑顔を一層華やかに見せていた。撮影現場で見せる大人びた表情とは違い、今の彼女は年相応の少女のように無邪気だ。
「お疲れ。今日は順調だったか?」大森は視線をパソコンから外さぬまま尋ねる。
「うん! カメラマンさんも褒めてくれたよ。『前より表情が柔らかくなった』って」
「そうか。それなら次の誌面でもいい印象になるな」短く答えながら、彼は新しいメモをスケジュールに打ち込んだ。
萌は大森の背後に回り込み、画面を覗き込む。「またギッシリだね……。ほんと、叢さんっていつ寝てるの?」
「寝る時間を削ってでも、君を売るのが私の仕事だ」
「ふふ、相変わらずだなあ」彼女は小さく笑い、デスクの端に腰かけた。足をぶらぶらさせながら、大森の横顔をじっと見つめる。その視線には感謝と、わずかな心配が混じっていた。
大森は眉をひそめたまま数字を並べ替える。彼にとって萌の笑顔は「守るべき商品」であり、「成功への鍵」でもあった。だがそれ以上に、無意識のうちに目を惹かれるものがあった。彼女が画面の光ではなく、窓から差す自然な夕陽に照らされたとき、その姿はきらりと輪郭を浮かび上がらせる。作り物ではない彼女の魅力が、そこに確かにあった。
「ねえ、叢さん」ふと、萌が声を落とす。
「……私、ここまで来られたのって、やっぱり叢さんのおかげだよね」
「何を言ってる。努力したのは君だ」
「でも、私一人じゃ絶対に迷子になってた。だってグラビアからテレビに行くなんて、最初は想像もできなかったもん」彼女の声には、わずかな震えが混じっていた。大森は指を止め、初めて真正面から萌を見る。
彼女は笑っていた。だがその奥に、不安や迷いが隠れていることを、長くそばにいる大森には分かった。
「心配するな。これからだよ。」短い言葉に、萌はぱっと顔を明るくした。
窓の外では、夕陽が街を橙に染めていた。スケジュールの隙間から漏れる一瞬の沈黙に、二人の呼吸だけが重なった。
テレビ局の廊下は、朝からざわめきに包まれていた。機材を運ぶスタッフ、台本を抱えて走るAD、そして控室へ急ぐ出演者たち。その中を、私は自然に歩を進めていく。
今日は特別な日だ。藤崎萌――私がマネージメントを担当する彼女が、初めて自分の名前を冠した番組を持つ。その第1回収録が、いよいよ始まるのだ。
楽屋の扉をノックし、ゆっくりと開ける。
「おはよう、萌」
「おはよ、叢さん!」中から明るい声が返ってきた。白のブラウスにパステルカラーのスカート。テレビ用の衣装に身を包んだ萌は、いつもより少し緊張した笑顔を浮かべていた。鏡台の前にはヘアメイクのスタッフが付き添い、最後のチェックをしている。
「顔色は悪くないな。昨日はちゃんと眠れたか?」
「うん。ドキドキしたけど、早めに寝たよ。……でも正直、緊張で目が覚めちゃった」
「当然だ。だがそれでいい。緊張は集中力に変わる。」私は彼女の隣に腰を下ろし、台本のページを軽くめくった。今日の進行はバラエティ仕立てで、ゲストを迎えてのトークと企画コーナー。いつもと違うのは、司会の立場が萌だということだ。
「自分の番組……なんだか信じられないな」萌は小声で呟く。
「信じられなくても、現実だ。ここまで来るために努力したのは君だ。胸を張っていい」私の言葉に、萌は鏡越しに私を見た。目がほんの少し潤んでいるように見えたが、すぐににこりと笑みに変わる。
時間になると、スタッフが迎えに来た。
「藤崎さん、スタジオ入りお願いします!」萌は深呼吸を一つして立ち上がる。その背中を私は静かに見守りながら、彼女と共にスタジオへ向かった。
スタジオに入ると、照明が一斉に灯り、眩しいほどの光が舞台を照らす。カメラが数台、所定の位置で構え、観覧席には関係者と少数の招待客が座っていた。中央には、番組のタイトルロゴが掲げられたセット。そこに「藤崎萌のスマイル・キッチン」とある。彼女の趣味である料理を切り口に、ゲストとのトークや挑戦を盛り込む企画だ。
リハーサルの段取りを確認しながら、私は台本を持つ手に自然と力が入っていた。
「では本番、いきます!」フロアディレクターの声が響く。カウントダウンの指が動き、スタジオは一瞬の静寂に包まれた。
「みなさん、こんにちは! 今日から始まりました『スマイル・キッチン』、藤崎萌です!」萌の声が、明るく響く。最初の笑顔は少しぎこちなかったが、観客の拍手に背中を押されるように自然さを取り戻していった。
最初のゲストは、人気お笑い芸人の二人組。軽妙な掛け合いに、萌は時折笑いながらも、台本通りにトークを回す。少し間が空けば、彼女は自分の言葉で質問を投げかけた。その姿に、私は密かに安堵する。司会進行は初めてに等しいのに、彼女は確かに「番組の顔」として振る舞えていた。
料理コーナーに移ると、萌の表情は一層生き生きとした。エプロン姿に着替え、慣れた手つきで材料を切り分けていく。
「これ、昨日家で練習したんです!」そう言って笑う彼女の横顔を見ながら、私は思う。
――この笑顔こそが武器だ、と。華やかさよりも、飾らない誠実さ。観客の反応が自然に温かい空気に変わっていくのを、肌で感じた。
番組後半、ゲストと一緒に作った料理を囲んでの試食タイム。芸人の一人が大げさに「うまい!」と叫ぶと、観覧席から笑いと拍手が広がった。その波に乗るように、萌も声を弾ませる。
「よかった! これからもいろんな料理に挑戦していきますね!」
カメラが引き、最後の挨拶に移る。
「これから毎週、この『スマイル・キッチン』で、皆さんと楽しい時間を作っていきたいと思います。どうぞよろしくお願いします!」
深々と頭を下げる萌。その姿が照明に照らされ、眩しいほどに映えていた。
「――オールアップ!」ディレクターの声が響き、スタジオ全体に拍手が広がる。スタッフもゲストも笑顔で彼女を労った。
私は少し離れた位置から、それを見ていた。胸の奥に、小さな熱が灯る。




