第十四話最終章
(でも……彼、結婚願望なんてないんじゃない?)
牧丘の年齢は二十八。まだ若いと言える。仕事に打ち込む姿勢を見ていると、家庭や結婚よりも、自己実現を優先しているように思えてならなかった。自分は三十歳。アラサーという言葉が、ここ最近になって急に重みを増している。女友達の多くは既に結婚し、子育ての話題を口にする。飲み会で「そろそろ相手は?」と聞かれるたびに、曖昧な笑みでごまかしてきた。
(私は……どうしたいんだろう)
牧丘と一緒にいると心が安らぐ。仕事の相性も良い。けれど、もし彼が結婚など考えていないのなら。
――自分の気持ちを伝えるのは、ただの愚かさかもしれない。
一次会が終わり、多くの同僚が帰路についた。残ったのは数人の若手と、舞香、牧丘だった。二次会に流れる空気になりかけたが、舞香は「明日もあるから」と笑って断り、牧丘と同じ方向の電車に乗った。
車内はほどよく空いていて、二人は並んで座った。アルコールの熱がまだ体に残り、舞香の頬はうっすらと紅潮していた。
「……牧丘くん、今日の打ち上げ、どうだった?」
「勉強になりました。皆さんに認めてもらえて、少し安心しました」
「うん。ちゃんと見てもらえてるわよ」
舞香は柔らかく笑った。だがその直後、言葉が続かなくなった。胸の奥に重い塊がある。吐き出してしまいたい衝動と、飲み込むべきだという理性がせめぎ合う。
電車の揺れが二人の距離をわずかに縮める。肩がかすかに触れ、舞香は心臓が跳ねるのを感じた。
「……中村さん?」牧丘が小さな声で呼ぶ。その眼差しに、舞香は思わず目を逸らした。
最寄り駅で降りると、夜風が頬を撫でた。駅前の人通りは少なく、二人の足音だけが響く。
「少し……歩いて帰ろうか」舞香がそう言った。
並んで歩くうちに、抑えていた言葉がこぼれ始める。
「私、ずっと迷ってたの」
「……迷ってた?」
「そう。牧丘くんは、結婚とか家庭とか……そういうものを考えてないんじゃないかって」
足が止まった。舞香は自嘲気味に笑い、夜空を見上げた。
「私はもう三十歳。正直に言えば、将来のことを考えずにはいられない。でも、もし想いを伝えて、結婚なんて興味ないって返されたら……怖くて」
牧丘は黙って聞いていた。やがて口を開く。「……確かに、結婚願望は強くないかもしれません。大学から一人暮らしで、ずっと独立を意識してきた。でも――」
彼はわずかに声を震わせた。「最近は後悔しています。もっと母に寄り添えばよかったって。誰かと共に過ごす時間を、大切にすべきだったんじゃないかって」
舞香は驚き、彼を見つめる。牧丘はまっすぐにその瞳を返した。「だから、今は違います。中村さんと一緒にいると、そう思えるんです。大切にしたいって。」
夜風が吹き抜け、街灯が二人の影を並べた。舞香の胸に、熱がせり上がる。
「……そんなふうに言われたら、抑えられないじゃない。」頬を赤らめ、彼女は一歩近づいた。
「牧丘くん。私、あなたが好き。年齢とか、結婚とか。考えないといけないこともたくさんあるけど一緒にいたい。」告白の言葉が夜に溶けていった。
短い沈黙のあと、牧丘は静かに手を差し伸べた。「……私も、中村さんが好きです」
温かな掌が触れ合い、指先が重なる。舞香は小さく笑い、涙ぐんだ。「よかった……本当に」
月明かりの下、二人の影は重なり合った。避けてきた迷いも、不安も、すべてを乗り越えた先に。新しい関係が、確かに始まろうとしていた。




