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第十四話第四章

 舞香は窓越しに流れるホームを眺めながら、胸の奥で呟いた。

 ――本当に、意識しているのは私だけじゃないのかもしれない。


 牧丘は牧丘で、心の中で言葉を探していた。

 ――この人といると、余計な防御をしなくてもいい。もっと話したい。もっと知りたい。


 だが次の瞬間、二人とも視線を合わせることができず、ただ静かな車内に身を委ねた。微妙な空気感が、確かにそこにあった。けれどその空気は、不快ではなかった。むしろ心地よい緊張が、互いの距離を少しずつ縮めていく。


 山形へ向かう列車は、初夏の光を受けながらひたすら北へ進んでいった。二人の胸の中には、まだ言葉にならない想いが静かに芽生え始めていた。


 ――山形駅に降り立った瞬間、二人を迎えたのは澄んだ空気だった。東京の喧噪とは違う、山々に囲まれた地方都市特有の落ち着きがある。空は青く、街並みは広々としていて、ほんの少し湿り気を帯びた風が頬を撫でた。


 「いい天気ね」舞香が軽く伸びをしながら言った。

 

 「ええ、過ごしやすそうです」牧丘はスーツの袖口を整え、周囲を見回す。新幹線の長旅で少し疲れていたはずなのに、不思議と心地よい高揚感があった。二人はタクシーで工場へと向かった。取引先は業界でも有数の製造会社で、今回の訪問は新規導入を見据えた重要な打ち合わせだ。


 会議室に通されると、現地の担当者たちが丁寧に迎えてくれた。資料を広げ、舞香が主導して商談を進める。彼女の説明は的確で、要点を簡潔に押さえている。牧丘はサポート役として、補足や技術的な情報を差し込みながら会話を支えた。


 緊張感のある数時間。だが終盤、相手側の表情が柔らかくなり、肯定的な返答が増えていった。

 「大変参考になりました。前向きに検討させていただきます」その言葉に、舞香はほっと小さく息を吐いた。

 

 「ありがとうございます。引き続きよろしくお願いします」


 訪問を終えて外に出ると、夕方の風が心地よかった。工場の駐車場から眺める山々は、朱色に染まり始めている。

 「……なんとか乗り切ったわね」

 

 「はい。中村さんの進行があったからです」

 

 「ふふ。そうやって年上を立てるのも上手ね」誂うように言いながらも、舞香の頬はどこか柔らかく緩んでいた。


 ホテルにチェックインを済ませると、二人は近くの居酒屋へと足を運んだ。地元料理を味わえる小さな店。木の引き戸を開けると、香ばしい焼き鳥の匂いが漂い、カウンターには常連らしき客が腰掛けている。


 「出張といえば、やっぱりご当地のものよね」舞香はメニューを眺めながら楽しそうに言った。

 

 「おすすめを頼んでみましょうか」

 

 「そうね。せっかくだからお酒も少しだけ」


 舞香が注文したのは、地酒の冷酒。牧丘はビールを選んだ。ほどなくして、冷えたグラスが目の前に置かれる。

 「お疲れさま」

 

 「お疲れさまです。」


 軽くグラスを合わせ、口に含む。冷酒の香りが広がり、牧丘は思わず顔をしかめた。

 「……慣れてませんね?」舞香が笑う。

 

 「はい。あまり飲まないので」

 

 「じゃあ今日は、私がリードするわね」


 料理が次々と運ばれる。芋煮、だしの冷奴、厚切りの米沢牛ステーキ。舞香は嬉しそうに箸を動かし、ときおり牧丘にも「これ美味しいから食べて」と小皿を差し出す。その自然な仕草に、牧丘の胸が温かくなる。


 「やっぱり……仕事終わりに食べるご飯は格別ね」舞香が頬を紅潮させ、笑みを浮かべる。

 

 「はい。なんだか旅行気分です」

 

 「出張なのにね」冗談めかした会話に、二人の間の距離が少しずつ縮まっていく。


 やがて話題は仕事から逸れ、プライベートへと広がった。


 「牧丘くんって、休日は何してるの?」

 

 「本を読むことが多いです。あとは散歩をしたり」

 

 「静かなのね。まあ、雰囲気通りだけど」

 

 「そうかもしれません」

 

 「じゃあ、恋愛の方は?」舞香が冗談めかして探りを入れる。だがその声には、ほんの少しの期待が滲んでいた。

 

 牧丘は一瞬言葉に詰まり、そしてゆっくり答える。「……今は、特にありません」

 

 「そ、そうなの」舞香はグラスを持ち上げたまま、視線を逸らした。耳まで赤い。


 牧丘はその様子を見て胸がざわめいた。――もしかして、彼女も同じように自分を意識しているのか。


 食事を終え、ホテルに戻る。チェックインの際、舞香がフロントで部屋のカードキーを受け取った。だが次の瞬間、彼女は首を傾げた。

 「……あれ?」

 

 「どうかしましたか」

 

 「予約が……一部屋になってる」


 フロントスタッフに確認すると、どうやら手違いでツインの部屋が一室しか確保されていなかったらしい。すでに満室で、今から別の部屋を用意することはできないという。


 「えっと……」舞香は一瞬言葉を失った。

 

 「どうしますか?」牧丘が静かに問いかける。

 

 「……仕方ないわね。ツインなら、それぞれベッドはあるし」そう言いつつも、舞香の頬はほんのりと赤い。


 二人はエレベーターに乗り込み、部屋へと向かった。ドアを開けると、確かに広めのツインルームだった。ベッドは左右に分かれて並び、窓際には小さなテーブルと椅子がある。清潔感のある部屋だが、二人きりで過ごすには緊張が伴う。


 「……とりあえず、私は先にシャワーを浴びてくるわね」

 

 「どうぞ」


 舞香が浴室に入り、シャワーの音が響き始める。牧丘はスーツを脱ぎ、椅子に腰掛けた。心臓が妙に高鳴っている。――意識するな、と言い聞かせても無駄だった。


 ほどなくして、舞香がバスルームから出てきた。ラフな部屋着に着替え、髪をタオルで拭きながら現れる。その姿に牧丘は思わず視線を逸らした。

 「どうしたの?」

 

 「いえ……なんでもありません」


 舞香は苦笑し、ベッドの端に腰掛ける。「まさか相部屋になるなんてね。ドラマみたい」

 

 「確かに」

 

 「……迷惑?」

 

 「そんなことはありません」短く答えたが、その声は少しだけ震えていた。


 部屋の時計が静かに時を刻む。窓の外には山形の夜景が広がり、遠くに街灯が点々と輝いている。


 舞香はベッドに腰を下ろしたまま、ぽつりと言った。

 「こうして一緒にいると、不思議ね。年下なのに、安心する」

 牧丘は驚いて彼女を見た。舞香は視線を落とし、指先でシーツをいじっている。頬は赤く、瞳はどこか潤んでいた。


 「……私もです」気づけば口をついていた。

 

 「中村さんと一緒にいると、緊張もしますけど、それ以上に……安心します」


 沈黙が落ちた。だがそれは重苦しいものではなく、互いの胸に温かさを広げる静けさだった。


 やがて舞香は、ふっと笑みをこぼした。

 「……この部屋、一晩で少し距離が縮まりそうね」

 

 「そうかもしれません」


 二人はそれ以上踏み込むことなく、並んだベッドに横たわった。だが眠りにつくまでの間、互いに相手の存在を強く意識し続けていた。


 山形の夜は静かで、外から虫の音だけが聞こえていた。

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