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第十四話第三章

 月曜の朝。出社した舞香は、いつもより少し早い歩調で会社の廊下を進んでいた。

 ――次に、牧丘くんと二人きりになったら。週末の宅飲みで口にしてしまった本音が、頭の片隅から離れない。友人・亜衣に背中を押されたこともあり、心の奥底ではもう決意を固めていた。自分の気持ちは、誤魔化せない。


 ただ、仕事中に表情に出すわけにはいかない。舞香は意識して真剣な顔を保ちつつ、デスクへと向かった。そこには既に牧丘の姿があった。資料を静かにめくる横顔は変わらず落ち着き払っていて、どこか年下らしさを感じさせない。

 「おはようございます」

 

 「おはようございます、中村さん。」短いやりとり。それだけで、舞香の胸の奥に波紋が広がる。


 午前の会議が終わると、営業部に一本の案件が舞い込んだ。地方の大手工場との取引に関する打ち合わせ。出張が必要な規模の案件だ。課長が資料を読み上げると、部内に少し緊張が走った。

 

 「誰を担当にするか……」会議室に沈黙が落ちる。ベテラン勢はそれぞれ既存の案件で手一杯だった。新規に出せるのは限られている。


 「中村さん」課長の視線が舞香に向けられる。

 

 「あなたがメインでどうだ?」

 

 「承知しました」舞香は即座に頷いた。こうした重要案件を任されること自体は珍しくない。だが今回は違う。頭の奥で、ある考えが強く灯っていた。


 ――パートナーを選ぶなら、彼しかいない。


 「それで、同行は誰に?」課長の問いに、舞香は一呼吸置き、視線を横へと送った。牧丘が真面目にノートを取っている。その姿を見た瞬間、躊躇いは消えた。

 

 「……牧丘くんを希望します」室内の空気が少し揺れた。入社して間もない新人を指名するのは、通常ならばリスクを伴う。しかし舞香ははっきりとした口調で続けた。

 

 「彼は研修の間に相当の理解を示してくれました。資料準備や商談の流れも問題ありません。同行に適任だと思います。」


 課長はしばし考え、やがて頷いた。

 「わかった。中村と牧丘で頼む。もし失敗しそうなら無理しないでも良い。宮崎くんに言ってもらうから。」

 

 「承知しました。」舞香は落ち着いた表情を保ちながらも、胸の内では強い鼓動を感じていた。


 会議が終わり廊下に出ると、部署の一角で佐伯亜衣――営業事務を担当している彼女が、こっそりガッツポーズを取るのが見えた。週末に酔った舞香の本音を聞いた張本人だ。

 (やった……! 本当に一緒に行くんだ)

 その喜びを声に出さないまま、亜衣は素知らぬ顔で自席に戻っていった。


 一方で舞香は、牧丘に声をかけた。

 「今回の出張、私と一緒に動いてもらうことになったわ。」

 

 「承知しました。準備を整えておきます。」牧丘の反応は相変わらず静かで簡潔だ。けれどその誠実な眼差しが、舞香の胸を揺さぶった。


 「移動は新幹線になるわね。資料は明日までにまとめるから、あなたは工場側の過去の導入事例を調べて。」

 

 「はい」短い返答。その落ち着きが逆に頼もしい。舞香は心の奥で小さく笑みを浮かべた。


 ――やっぱり、この人となら大丈夫。


 業務の打ち合わせを終え、自席に戻る途中。廊下の窓から差し込む午後の光が、白い床に長い影を落としていた。舞香はその中を歩きながら、再び心に誓う。

 

 ――次に二人きりになったとき、もう想いを抑えきれないかもしれない。

 その決意と緊張が、彼女の歩みを確かに速めていた。


 東京駅の朝は、人の波が絶え間なく押し寄せる。ビジネスバッグを手にしたサラリーマン、観光客らしき家族連れ、学生たちのグループ。そのざわめきの中で、牧丘睦雄は新幹線の改札を通り抜けた。待ち合わせ場所には既に中村舞香の姿があった。濃紺のジャケットに身を包み、資料を収めた薄型のケースを片手に持っている。彼女はいつものように落ち着いた表情を浮かべていたが、瞳の奥にはどこか緊張を孕んでいるようにも見えた。


 「おはようございます、中村さん。」

 

 「おはよう。早かったのね。」

 

 「電車が空いていたので。」


 淡々としたやりとり。だがその短い会話の裏で、互いにわずかな意識を隠せずにいた。先週から舞香は妙に彼を気にしている自覚があり、牧丘自身もまた、その視線を感じ取っていた。二人は指定席に腰を下ろした。窓際に舞香、通路側に牧丘。列車がゆっくりと動き出すと、車窓には都会のビル群が流れ、やがて遠ざかっていく。


 最初のうちは、打ち合わせの確認や資料の読み合わせが会話の中心だった。舞香が淡々と説明し、牧丘が要点をメモにまとめる。そのやり取りに不自然さはない。けれど、ふと会話が途切れると、車内の静けさが二人の間に横たわった。


 ――どうしてこんなに意識してしまうのだろう。

 牧丘はペン先を止め、胸の奥でつぶやいた。彼女は自分の上司であり、教育役だ。年上で経験も豊富、尊敬すべき存在。だが最近、目が合うたびに妙な緊張が走る。彼女が不意に笑うだけで、心臓の鼓動が少しだけ速くなる。


 「……なんだか、静かね」舞香が窓の外を眺めながらぽつりと口を開いた。

 

 「はい。……会話が業務のことばかりだったからでしょうか」

 

 「まあ、出張なんだから当然だけど」そう言いながらも、舞香は唇の端をわずかに上げた。

 

 「でも、せっかくだし。少しは仕事以外の話もしない?」

 

 「そうですね。」短い沈黙のあと、牧丘は少し迷いながら口を開いた。

 

 「……私は、大学に入ってから一人暮らしを始めました」舞香は目を瞬かせ、首を傾げる。

 

 「突然ね。それ、どういう話?」

 

 「いえ、先ほど“静か”だとおっしゃったので、ふと思い出したんです。私の部屋もずっと静かでしたから。」

 

 舞香は小さく笑った。「なるほど。一人暮らし歴が長いのね。」

 

 「はい。母と二人で暮らしていたのですが……早く独り立ちしないといけないと考えて、地元を離れました。」


 その言葉のあと、彼の声はわずかに沈む。

 「でも今では、少し後悔しています。もっと一緒にいてあげればよかったと」舞香の視線が彼に向いた。普段は冷静な瞳が、柔らかな色を帯びている。

 

 「……優しいのね、牧丘くん」

 

 「そうでしょうか。」

 

 「そうよ。そんなふうに思える人、なかなかいないわ。」


 彼女の言葉に、牧丘は返答を探せず視線を落とした。窓の外に田園風景が広がり、青空の下に点々と民家が続いている。舞香は少し迷ったように口を開いた。

 

 「私もね、実家を早くに出たの。就職で東京に来てから、両親と会うのは年に1回あるかないかぐらい。電話はしてるけど、たまに不安になるわ。離れているうちに、何かあったらどうしようって。」

 

 「……似てますね」

 

 「そうかもしれないわね。」二人の声は自然と小さくなり、隣の席で交わすには少し親密すぎるほどだった。


 「牧丘くんは、帰省してる?」

 

 「ええ、年に一度くらいです。でも帰るたびに母が少し小さくなっている気がして……」言いかけて、彼は苦笑を浮かべた。

 

 「すみません。出張の移動中にする話じゃなかったですね」

 

 「いいのよ。」舞香は首を横に振った。

 

 「むしろ、そういう話を聞けるのが嬉しい」その一言に、牧丘の胸の奥に温かいものが広がった。


 列車は北へ進み、窓外には緑が濃くなっていく。会話は途切れながらも、以前のようなぎこちなさは薄れていた。


 「そういえば、中村さんは休日どうしてますか?」牧丘の問いに、舞香は意外そうに目を丸くした。

 

 「私? 友達と会ったり、料理したりかな。あとは……一人で映画もよく行く」

 

 「映画館ですか」

 

 「そう。暗い空間で物語に入り込むと、頭がすっきりするのよ」

 

 「なるほど」牧丘は頷き、少し考えてから口を開いた。

 

 「私は料理も映画も疎いです。けれど……もし機会があれば、教えてください」


 不意の言葉に、舞香は一瞬だけ息を呑んだ。頬にうっすらと赤みが差し、視線を窓へ逸らす。

 「……ええ。そのうちね」


 会話は再び静まり、車内にはアナウンスが流れた。「次は福島」。列車が速度を緩め、広い駅構内へと入っていく。

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