第十一話第二章
授業のチャイムが鳴る。立ち上がった桃子は手を振り、部室を出ていった。
残された應正は、机に置かれたクラリネットをしばらく見つめていた。
――もう二度と、音楽なんてしないはずだったのに。
胸の奥で、消えかけた旋律がわずかに響いた気がした。
――――――翌朝――――――
県立東高校の校舎には、昨日よりも少し濃い春の光が差し込んでいた。桜の花びらはなおも風に舞い、校門のあたりでは新入生たちが友人と笑い合いながら登校してくる。
應正は、そんな喧噪の中にありながら、一歩引いた視点で自分を包んでいた。鞄から数学の問題集を取り出し、教室の自席に腰を下ろす。
――今日から本格的に授業が始まる。余計なものに惑わされず、しっかり先を見据える。それが私のやるべきことだ。
そう言い聞かせ、ページをめくった。
だが、一時間目が終わった瞬間だった。
ガラリ、と教室の扉が勢いよく開く。
「應正くん!」
明るい声が廊下から飛び込んでくる。昨日と同じ、いやそれ以上の勢いで山口桃子が駆け込んできた。
教室の視線が一斉に彼女に向かう。まだ新入生と二年生の交流が少ないこの時期に、先輩がわざわざ教室までやってくるのは珍しいのだ。
「ちょっといい?」桃子は机に近寄ると、息を切らしながら笑顔を向けた。
應正は眉をひそめる。「……また?」
「また、だよ」桃子はあっさり頷いた。「昨日言ったでしょ。待ってるって」
周囲のクラスメイトが「誰?」「二年生?」とひそひそ囁く声が耳に入る。注目を浴びるのは應正の望むところではなかった。
「ここで話すのはちょっと……」
「じゃ、廊下!」返事も待たずに腕を引っ張られ、半ば強引に教室の外へ。
廊下に出ると、桃子はすぐさま口を開いた。
「昨日のクラリネット、どうだった? まだ指先に感覚残ってるでしょ」
「……別に」
「嘘」桃子はにやりと笑った。「だって、吹いたときの顔、すごく真剣だったもん」
應正は言葉を詰まらせた。確かにあの瞬間、忘れたはずの熱がわずかに蘇っていた。それを見抜かれていたのだと思うと、悔しいような気恥ずかしいような気持ちになる。
「だから、また来てほしいの。今日の放課後、時間ある?」
「……授業、あるし」
「放課後は授業ないでしょ!」あまりに当然のように言われ、返す言葉を失う。
チャイムが鳴り、二人は慌てて教室に戻った。
――二時間目が終わると、また廊下から駆け込んでくる声が響いた。
「應正くん!」
「……なんでまた来るんだよ」
「休み時間だから!」と桃子は悪びれずに笑う。
周りのクラスメイトたちはすでに面白がっており、「また来たぞ」「伊藤、先輩に気に入られてるじゃん」と囁き合う。應正の耳は赤くなったが、表情は必死に無関心を装った。
「でね、今日のお昼休み、ちょっと一緒に来ない? 部室までは行かなくていいから、音楽室で少しだけ」
「……昼休みは本を読むから」
「じゃあ本持ってきていいよ」
「いや、そういう問題じゃなくて」
「じゃあ決まりね!」人の話を聞いているのかいないのか、桃子はにっこりと笑って立ち去った。
應正は机に突っ伏したくなった。
――どうしてこう、私を放っておいてくれないんだ。
だが、胸のどこかでほんの少しだけ、次に何を言われるのかを待っている自分がいるのも事実だった。
昼休み。弁当を広げようとしたとき、再び廊下の方から駆け込んでくる音がする。
「應正くん!」今度はすでにクラス中が笑い出した。
「本当に毎時間来るな」
「なんだあの先輩」
應正は頭を抱えたくなった。
「お昼、一緒に食べよう!」
「いや、私は一人で……」
「じゃあここで!」と桃子は自分の弁当を机に置き、勝手に隣に座った。
仕方なく並んで弁当を広げる。桃子は卵焼きを一口食べ、目を細めた。
「應正くんは料理する?」
「しない」
「そっか。じゃあ今度作ってきてあげる」
「別にいらない」
「遠慮しなくていいよ」
「遠慮じゃない」そんなやり取りをしながらも、気づけば應正は箸を動かす手を止めずに会話に付き合っていた。
昼休みが終わるころ、桃子はにっこりと笑った。
「じゃあ放課後、音楽室でね」
言い逃げするように去っていく背中を、應正は追いかける気力もなく見送った。
午後の授業の合間の休み時間。
またもや桃子が走って現れる。
「應正くん、居眠りしてない?」
「してない」
「そっか、えらい」
「子供じゃないんだから」
「でも、授業ちゃんと受けてるって偉いよ」あまりに自然に褒められて、返す言葉が見つからなかった。
――――――放課後――――――
「應正くん、こっちこっち!」
桃子は廊下で手を振っていた。もうクラスの誰も驚かず、半分呆れ顔で「行ってこいよ」と冷やかしてくる。
渋々立ち上がり、應正は足を向けた。
音楽室のドアを開けると、窓から夕日が差し込み、ピアノの黒い鍵盤が赤く染まっている。
桃子はクラリネットを手にして待っていた。
「今日は、聴くだけでいいから」
そう言って、柔らかな音を奏でる。旋律は昨日よりも長く、揺れるように続いていく。春風のようにやさしく、それでいて胸の奥を強く揺さぶる響き。
――やめろよ。そんな音を、また聴かせるな。
應正は心で呟く。だが、足は一歩、無意識に前へ出ていた。
曲が終わると、桃子は笑顔で振り返る。
「どう? 少しは、聴いてみたくなった?」
應正は答えられなかった。
ただ、握りしめた拳が震えていることに自分で気づき、目を伏せた。
「……また明日も、来ていい?」
桃子の声は軽やかだが、どこか真剣だった。
應正はしばらく沈黙し、やがて小さく頷いた。
窓の外、夕日が校舎を黄金色に染め上げていた。




