第十四話第一章
朝の街はまだ柔らかな光に包まれていた。駅前のロータリーを囲む建物は低く、そこに射す朝日が窓ガラスを淡く染めている。人々の流れは早く、スーツ姿の群れが一定の方向へ吸い込まれていく。
牧丘睦雄は、その群れの一人として足を進めていた。
二十八歳。前職では営業の最前線に立ち、数字を積み上げることに迷いはなかった。だが彼を突き動かしたのは、より広い舞台で自分を試したいという渇望だった。選んだ先は宮島発動機。国内でも名の知れたエンジンメーカー。技術の厚みに支えられた会社だった。
牧丘は寡黙な性質を持つ。無駄に言葉を重ねることを好まず、必要な会話だけを淡々と返す。その代わり、事前の準備には徹底して時間をかける。入社が決まってからの数週間、宮島発動機の製品群、主要市場、競合との比較、さらには過去の特許情報まで読み込み、ノートに要点を整理した。机の引き出しに収まらないほどの資料をすでに消化している。
――初日で慌てることはない。
胸の奥に確かな余裕を抱えながら、会社のビルの前に立った。
ガラス張りの外壁が朝日を反射し、硬質な輝きを返している。自動ドアをくぐると、冷たい空調が頬を撫でた。エントランスの石床は磨かれ、靴音が澄んで響く。受付を通り、総務の案内に従ってエレベーターに乗る。
扉が開いた瞬間、低く澄んだ声が耳に届いた。
「牧丘さんですね」
振り向いた先に立っていたのは、ショートヘアの女性だった。
中村舞香。三十歳。今日から彼を導く直属の上司。
黒のジャケットに白いブラウスを合わせた姿はすっきりとした印象を与える。顎のラインに沿う髪が光を受け、表情を際立たせていた。鋭さを湛えた眼差しだが、声には無理のない落ち着きがある。
「これから教育を担当します。よろしくお願いします」差し出された手を握る。指先は硬く、握力には確かな力が宿っていた。
彼女に案内されながらフロアを歩く。島型のデスク、壁際に積まれた資料。機械部品の模型やカタログがところどころに置かれている。社員たちが視線を上げ、一瞬だけ新入りを確かめ、すぐに仕事へ戻った。
「最初の一週間は製品の理解と社内システムの習得が中心です。営業に出るのはその後。ただ、知識の吸収は思った以上に時間がかかりますよ」
「承知しました」牧丘は短く答えた。
自席に着くと、舞香が資料を積み上げた。分厚いカタログや技術解説。普通なら尻込みする量だろう。しかし牧丘は既に内容の大半に目を通していた。表紙をめくりながら、記憶の中の知識と照合していく。
「……この型式、昨年海外向けにリニューアルされていますよね。燃費効率の改善で排ガス規制をクリアしたはず」舞香がわずかに目を細めた。
「調べてきたんですね。」
「はい。入社前に公開資料を一通り」言葉は淡々としているが、嘘ではない。夜ごとに業界誌と技術報告を読み漁った成果だった。
午前中、舞香の説明は滑らかに進んだ。顧客情報の管理方法、見積作成のフロー、承認ルート。彼女が操作を示すたび、牧丘は画面を追い、要点をノートに整然と書き込む。質問は最小限。だが一度尋ねた内容は即座に理解し、再確認の必要はなかった。
「……飲み込みが早いですね」
「必要な部分は事前に整理してきました」無表情に近い答えだったが、内心ではわずかに安堵していた。緊張はある。だがそれを悟らせないことが彼の習性でもあった。
昼休み、社内食堂に足を運ぶ。窓際の席に並んで腰を下ろすと、外には工場地帯と高速道路が見渡せた。大型トラックがひっきりなしに往来し、その背後には煙突から白い蒸気が立ち昇っている。
舞香は定食を手際よく口に運びながら言った。
「転職してきた人は、最初の数か月でだいたい見えるんです。ここで生き残れるかどうか。」
「……ええ」
「でも、あなたは大丈夫そう。無駄にしゃべらず、準備をしている。そういう人は強い。」淡々とした評価。牧丘は箸を置き、小さく会釈を返した。
午後は技術部門との顔合わせだった。作業着姿の技術者が並ぶ前で、牧丘は必要最小限の自己紹介をしただけだ。だが製品番号や改良点に触れると、相手の表情がわずかに変わった。新入りにしては知識が深い――その視線を肌で感じた。舞香もまた、その様子を静かに観察していた。
夕刻。フロアの窓が橙色に染まり、書類の影が長く伸びていた。舞香がデスクに手を置き、今日の区切りを告げた。
「初日、お疲れさまでした。普通なら知識の多さに圧倒されるはずですが……あなたには余裕があるようですね」
「まだ表層をなぞっただけです。これからが本番でしょう」その言葉に、舞香の口元がわずかに緩んだ。
「頼もしいですね。明日からは実際の案件を想定して進めましょう」
短い会話の中に、互いの立場が確かに形を取り始めていた。上司と部下。だがそれだけではない。舞香にとって牧丘は、少し予想を外れた存在になりつつある。
夜の帳が下りる頃、牧丘は静かにデスクを片づけた。初日を終えた疲労よりも、明日への緊張と静かな高揚が胸にあった。
――ここでなら、次の自分を築ける。
その確信を携え、彼は会社を後にした。
――研修の最初の一週間は、息をつく間もなく過ぎていった。
フロアに積まれた資料の山、端末に映るシステム画面、そして社内を行き交う多くの社員。牧丘睦雄はその中で、常に静かにノートを開き、必要な言葉だけを書き込み、無駄な質問をしなかった。
中村舞香はその様子を、横目で観察していた。新人は往々にして「とにかく聞く」ことで安心しようとする。だが牧丘は違った。質問は少なくとも、示された手順を一度で覚え、操作を間違えることはほとんどなかった。
「……本当に初日から準備してきたんですね」思わず漏らした言葉に、牧丘は静かに視線を上げた。
「知識は知識にすぎません。実際に役立てられるかは、ここからです」彼の声は低く抑えられ、誇張のない響きだった。
――――――昼休み――――――
窓際の席で二人並んで食事を取るのが、この週の日課となった。ある日、舞香が味噌汁の湯気を眺めながらぽつりと口にした。
「あなた、よく黙っていますね。周囲から『冷たそう』なんて言われませんか?」
「よく言われます。」
「気にしない?」
「……必要なことを伝えられれば十分です。言葉は少ない方が届くと思っています。」舞香は箸を止め、ふっと笑った。
「理屈っぽいけど、妙に説得力があるわね。」その笑みは硬さを和らげ、彼女の横顔を柔らかく見せた。ショートヘアーの毛先が頬にかかり、窓から差す光を受けてわずかにきらめいた。
牧丘は言葉を返さなかった。だが心のどこかに、彼女の笑顔の残像が刻まれた。
三日目の午後。技術課との合同研修。エンジン部品の模型を前に、担当者が細かい仕様を説明していく。
「このピストン径は――」技術者の言葉に被せるように、牧丘が短く補足した。
「昨年のモデルチェンジで二ミリ縮小され、燃費効率が三%向上したと資料にありました」担当者が驚いたように目を見開く。
「……よくご存じで」
「公開されていたデータですので。」淡々とした答え。だが技術者の態度には一瞬の敬意が混じった。
研修後、舞香は小さく息を吐いた。
「あなた、技術者泣かせですね」
「余計な口を挟みましたか」
「いいえ。むしろ喜んでいましたよ。営業がそこまで知っていると分かれば、技術も安心できます」彼女の声音は、わずかに柔らかさを増していた。




