第十三話第五章
付き合い始めてから一ヶ月。
季節は夏の終わりを迎え、空の青さもどこか柔らいできていた。蝉の声はまだ耳に残るが、風にはほんの少しだけ秋の気配が混じっている。放課後の帰り道、彼女がふいに言った。
「ねえ、今度の休みに……一緒にプール、行かない?」
唐突な誘いだった。私は思わず足を止めたが、考える間もなく口が返事をしていた。
「……ああ、いいぞ」
二つ返事。迷いはなかった。彼女の表情がぱっと明るくなるのを見て、その選択に後悔はないと確信した。
―――そして当日―――
日差しはまだ強く、プールサイドは照り返しで眩しい。私は先に更衣室を出て、タオルを肩にかけながら彼女を探した。
少しして、視線の先に彼女が現れた。水色のビキニに身を包み、プールサイドの椅子に腰を下ろしている。日差しを受けてきらめく髪と、濡れていないのに艶やかな肌。だが何より目を引いたのは、その鍛え抜かれた腹筋だった。
引き締まった縦線が綺麗に刻まれている。その上には豊かな胸が形よく盛り上がり、女性らしい柔らかさと並び立っている。そのアンバランスさに、一瞬言葉を失った。
彼女は頬を赤くし、タオルをぎゅっと握りながら私に言った。
「わ、私の水着……どうかな? やっぱり、こうして見るとムキムキすぎて、女の子らしくないかな……」
声は小さく震えていた。普段、強気で堂々とした姿しか見せない彼女が、初めて見せるような戸惑いと不安。その表情に胸が熱くなる。私は言葉を探し、ゆっくりと口を開いた。
「……正直に言うぞ」
「う、うん……」
「似合ってる。すごく綺麗だ。鍛えた身体も、君らしいと思う。無理に隠す必要なんてないよ。」彼女の目が一瞬大きく見開かれ、それからゆるゆると笑みが広がっていった。
「……ほんとに?」
「ああ」照れくささを隠すように、私はタオルを頭にかぶせて視線をそらした。けれど横目で見る彼女は、頬を紅潮させたまま、それでも嬉しそうに笑っていた。
「ありがとう。君にそう言ってもらえると……ちょっと自信が出る」彼女は立ち上がり、プールの縁へ歩いていく。その背中を見つめながら、私は思った。
――この一ヶ月で、彼女が見せてくれる表情は本当に多彩だ。強気な笑顔も、無防備な不安も、すべてが愛おしい。
水面に映る夏の空が揺らぎ、彼女が振り返った。
「一緒に入ろう。」
「ああ」私は立ち上がり、彼女の隣へと歩き出した。
水に足を入れた瞬間、ひんやりとした感触が身体を包み込んだ。夏の終わりとはいえ、太陽はまだ力強く、冷たさが心地いい。私は一歩ずつ深みへ進み、肩まで浸かると息をついた。
隣では彼女が軽やかに水を蹴っていた。鍛えられた体幹は水面でも揺らがず、すっと進んでいく。まるで魚のように自然な動きだ。
「やっぱり水の中は落ち着くわ。」彼女は肩まで浸かりながら、心底リラックスした表情を浮かべた。普段の強気な眼差しが和らぎ、少女らしい柔らかさを見せている。
私はそんな横顔を盗み見てしまい、慌てて視線をそらした。「……君は本当に泳ぐのが得意だな」
「部活で鍛えてるからね。都築は? 泳ぐの、得意?」
「得意ではないな。人並みにはできるが」
「ふふ、じゃあ勝負してみる?」
彼女が挑発的に笑う。冗談半分なのは分かっていたが、私は思わず頷いていた。
「いいだろう。手加減は期待しないでくれ。」
二人でプールの端に並び、合図もなく飛び出した。彼女はやはり速い。水を切るたびに大きく前へ進み、距離はあっという間に開いた。私は必死に追うが、その背中は遠ざかるばかりだ。
ゴールについた彼女は振り返り、勝ち誇ったように笑った。
「圧勝ね」
肩で息をしながら白旗を上げると、彼女は声を上げて笑った。その笑い声は、プールサイドに反響して心地よく響いた。
しばらく水に浮かんで休んでいると、彼女が不意に水を掬い私にかけてきた。
「っ……なにをする」
「仕返しよ。さっき真剣な顔して追いかけてくるから、ちょっと怖かった」
言いながら再び水をかけてくる。私は眉をひそめつつも、やり返さずにはいられなかった。互いに水をかけ合い、笑いながら逃げ回る。普段の学校では見られない無邪気な彼女がそこにいた。
やがて落ち着いた時、私たちはプールの端に並んで腰をかけていた。足を水に浸し、静かに波紋が広がる。
「ねえ」彼女が口を開く。
「こうして笑い合えるの、嬉しい。君といると、無理に格好つけなくてもいい気がするんだ」
頬にかかる髪を払う仕草は、いつもより大人びて見えた。私は少し迷いながらも口を開いた。
「私もだ。……君は強くて、堂々としていて、でも時々不安そうにする。そういう全部を知れて、傍にいられるのは、悪くない」言い終えた瞬間、彼女の頬が赤く染まった。水面に映る夕陽が、さらにその色を濃くする。
「……ずるいな。そんな風に言われたら」
彼女は足を揺らし、水飛沫が小さく跳ねた。沈黙が落ちる。だがその沈黙は居心地が悪いものではなかった。胸の奥が熱を帯び、ただ隣にいることが自然に思えた。
プールサイドには他の利用客の声も響いていたが、私たちの世界だけは切り取られたように静かだった。やがて、彼女がぽつりと呟いた。
「夏が終わっちゃうの、ちょっと寂しいね」
「そうだな。けれど……また来年もある。受験だけど」
「うん。その時も、一緒に来てくれる?」
「もちろん」私が即答すると、彼女は驚いたように目を見開き、それから照れ隠しのように笑った。
「……約束ね」その笑顔を見て、胸の奥に温かいものが広がった。
プールを後にした頃には、空はすっかり茜色に染まっていた。西の空に沈む太陽が街並みを赤く照らし、アスファルトには一日の熱がまだ残っている。私たちは並んで歩いていた。肩が触れるほどの距離ではないが、妙に近い。沈黙が続いても、不思議と居心地は悪くなかった。
「楽しかったね」彼女が口を開く。
「……あんなに笑ったの、久しぶりかもしれない。」
「君があんなにはしゃぐのは、私も初めて見た。」正直に言うと、彼女は恥ずかしそうに視線を逸らした。
「だって……普段はそういう顔できないもの。部活でも勉強でも、期待されるし、気を抜けないし」
その言葉に、私は少しだけ胸が締め付けられた。
――結城おうあ。誰もが一目置く存在でありながら、その強さに隠れて孤独を抱えていた。
「私は、君のそういう姿を見られて良かったと思うよ」
「……どういう意味?」
「強い君も、無邪気に笑う君も、全部そのままでいいってことだ」彼女は歩みを緩め、私をじっと見つめてきた。街灯が灯り始めた通りで、瞳がわずかに揺れているのが見えた。
「ねえ、都築って……本当にずるい」
「ずるい?」
「そう。私が言われたくないところ、ちゃんと突いてくるんだもん。」彼女はそう言って笑った。少し拗ねたような、けれど嬉しそうな笑顔だった。
その後、最寄り駅に着くまで他愛もない話を続けた。新しい授業のこと、そして来年の進路のこと。話題は尽きず、気づけば夜の帳がすっかり下りていた。改札の前で立ち止まる。互いに帰る方向は違う。自然と別れの時が訪れる。
「今日は……ありがとう」彼女が小さく呟く。
「礼を言うのは私の方だ。君が誘ってくれたおかげで、楽しい時間を過ごせた」そう答えると、彼女は一瞬唇を噛みしめた。まるで何かを言い出そうとして、ためらっているようだった。
「……あのね」けれど、改札を通ろうとする人の流れに押され、その言葉は続かなかった。彼女は小さく首を振り、無理に笑顔を作る。
「ううん、なんでもない。また明日」
手を振り、改札を抜けていく後ろ姿。制服の上から羽織ったカーディガンが揺れ、髪が夜風に踊る。私はしばらくその姿を目で追っていた。胸の奥が、どこか温かく、そして少しだけ切なかった。(また明日……か)
夏の終わりの夜風は涼しく、頬に残る熱を冷ましてくれる。だが、心に残った熱だけは、簡単には消えそうになかった。




