第十三話第三章
結城おうあに「彼氏」と宣言されてから数日。クラスの噂は未だに収まらない。けれど私は、それよりも自分の心の揺らぎのほうに戸惑っていた。
彼女は毎日のように声をかけてくる。朝の挨拶、授業の合間、帰り際。特別に親しげな仕草をするわけではない。ただ自然に隣に座り、会話を交わし、時折笑う。その一つ一つが私の中に波紋を広げていった。
(……私は恋人など必要ない。必要ないはずだ)
そう自分に言い聞かせるたび、心のどこかで「なら、なぜ彼女の言葉や仕草が気になるのか」と問い返す声が響いた。
ある日、放課後に突然の夕立が降った。私は傘を持っていなかった。図書室に寄っていたため、外の空模様に気づかなかったのだ。昇降口で立ち尽くしていると、不意に声をかけられる。
「都築くん、一緒に帰りましょう。」振り向くと、結城が傘を差し出していた。白いハンドルに水滴がついて光っている。
「私は濡れて帰る」
「馬鹿ね。風邪をひいたらどうするの。」有無を言わせぬ調子で腕を引かれる。私は反射的に抵抗しようとしたが、結局、彼女の傘に入ることになった。
狭い空間に二人。雨音が鼓膜を叩き、肩がかすかに触れそうになる。彼女の髪からはほのかなシャンプーの香りが漂い、私は思考を乱された。
「どうしてそんなに人を拒むの?」不意に彼女が問いかける。
「拒んでいるつもりはない」
「じゃあ、なぜ距離を置こうとするの?」
私は答えられなかった。論理的な理由を並べても、今この瞬間の近さに心が追いつかない。結城はそれ以上追及せず、ただ傘を少し傾けて、私の肩が濡れないようにしてくれた。
(……不思議だ。彼女の強引さを迷惑に思うはずなのに、なぜか嫌ではない)
―――文化祭の準備は、表向きは順調に進んでいるように見えていた。だが実際は、裏方で混乱が続いていた。私は実行委員から頼まれていた買い出しを終え、クラスの出し物――喫茶店風の装飾を覗きに行った。
その瞬間、教室の中は騒然としていた。
「ちょっと! 壁の飾り、崩れてきてる!」
「嘘だろ!? 画鋲が外れて……!」
「これ、もう間に合わないよ!」
壁一面を覆うカーテンのような布がずり落ち、机の上に積み上げていた小物も倒れて散乱している。足元に紙コップが転がり、準備に励んでいたクラスメイトたちは混乱して声を張り上げていた。
私は足を止め、どうするべきかを一瞬考えた。関わらずに黙って立ち去ることもできる。しかし――
「皆、落ち着いて。」教室の中央に立った結城おうあの声が響いた。騒ぎの中でも、その澄んだ声は不思議と通る。
「パニックになっても解決しないわ。都築くん。」いきなり名を呼ばれ、私は目を瞬いた。
「手を貸して。君なら状況を把握できるでしょう。」その言葉に背中を押され、気づけば私は散らかった机に近づいていた。
「まずは倒れたものを端に寄せろ。机を並べ替えるのは後だ。」
自分でも驚くほど冷静に指示を飛ばすと、数人が動き出した。結城はその横で布の端を押さえ、別の生徒に画鋲とテープを取りに行かせている。
「紐を渡して。……そう、それを上で結んで」彼女の指示は的確だった。無駄がなく、皆が自然に従う。まるで部活の練習を指揮するかのように堂々としていた。
私は彼女の隣に立ち、布の重みを支える。近距離で見ると、額にうっすら汗が滲んでいる。普段の冷静沈着な姿からは想像できない必死さだった。
「結城、もう少し上に持ち上げるぞ」
「わかった。……今!」二人で声を合わせ、布を引き上げる。数秒の緊張ののち、布が元の位置に固定され、教室の中に安堵の声が広がった。
「はあ……助かった……!」
「すごい、もう直ったのか」皆が口々に感謝を述べる中、私は結城に目をやった。彼女は深く息をつき、ふっと笑みを浮かべていた。
「ありがとう、都築くん。やっぱり頼りになる」
「私はただ……言われた通りに動いただけだ」
「違うわ。君が一緒に動いてくれたから、皆も落ち着けたの」
そう言われ、私は返答に詰まった。確かに無駄を嫌う私なら、本来なら関わらないはずだった。だが、彼女の強い眼差しに導かれ気づけば行動していた。
教室のざわめきの中、結城の横顔だけが鮮やかに残った。完璧に見えて、実際には必死に走り続ける人間。その姿に、私は目を奪われていた。
文化祭が終わった夜。片付けを終え、校門を出たところで、結城が声をかけてきた。
「ありがとう。助かったわ。」
「私は指示通り動いただけだ。」
「でもね、あのとき本当に心強かったの。皆、貴方が一緒に動いたから落ち着けたのよ」私は返答に迷った。そんな評価を受けた経験がほとんどなかったからだ。
彼女は少し間を置き、声を潜めた。
「……実はね、私、皆に完璧だと思われるのが少し苦しいの」不意に打ち明けられた秘密に、私は息を呑んだ。
結城おうあ――誰もが憧れる存在。その彼女が、弱さを口にするとは思わなかった。
「だから、貴方の前では素直でいられる。貴方は私を理想像で見ないから」彼女の目が真っ直ぐに私を射抜いた。胸の奥で何かが揺れる。その夜、帰宅してからも彼女の言葉が頭を離れず反芻していた。
――――――数日後――――――
私は図書室で調べ物をしていた。ふと視線を感じて顔を上げると、結城が入ってきた。
「ここにいたのね」
「……何の用だ」
「用がなくても、一緒にいては駄目?」彼女は向かいの席に腰を下ろし、本を開いた。ページをめくる音だけが響く。
不思議と嫌な静けさではなかった。むしろ心が落ち着く。
「……君はなぜ、私に構う」
「好きだから。」即答だった。冗談めいた調子ではなく、静かに告げる声。私は視線を逸らした。本の文字がぼやける。
(好き……その一言で、どうしてこんなに心が乱れる)
―――さらに数日後
校内で小さな事故があった。体育館裏で棚が倒れかけ、私は巻き込まれそうになったのだ。咄嗟に結城が私を引き寄せ、危機を免れた。
「大丈夫!?」
彼女の手が私の腕を強く掴んでいた。鼓動が耳に響く。怪我はなかったが、その瞬間、彼女の真剣な眼差しに胸を打たれた。
「……ありがとう」
絞り出すように礼を言うと、彼女は安堵の笑みを浮かべた。
「無事で良かった。本当に……」
その表情を見て、私ははっきりと自覚した。
――彼女は本気で私を思っている。そして私は、その思いに応えるべきかどうかを悩み始めていた。
夜、自室で机に向かいながら、私は考えていた。結城おうあ。強引で、理解不能で、時に私を困らせる存在。だが同時に、雨の日に肩を濡らさないようにしてくれた人。文化祭で皆を導いた人。弱さを打ち明けてくれた人。
(……私は、彼女を拒み続けられるだろうか)
答えは出ていた。拒む理由を、もはや見つけられなかった。




