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第十三話第二章

 午後の授業が始まるころには、すでに違和感が広がっていた。教室に戻った瞬間、幾つもの視線が私に突き刺さったのだ。ひそひそと囁く声、抑えきれない笑い。理由は一つしかない。


 ――結城おうあと並んで廊下を歩いていた。しかも彼女が私の肩を掴み、何やら親しげに話していた。

 それだけで十分だった。噂の種は、たちまち火をつけられたように広がる。


 「なあ、聞いた? 都築が……」


 「結城と一緒にいたよな」


 「まさか、付き合ってんのか?」

 囁き声は隠すつもりもなく私の耳に届いた。私は溜息をつき、鞄を机に置いた。別に後ろめたいことはない。だが、説明しても無駄だと分かっていた。こういう類の噂は、真実かどうかより「面白さ」で生き延びる。結城はといえば、まるで気にしていない。窓際の席に腰を下ろし、教科書を開いて淡々とページをめくっている。その姿が余計に注目を集めていた。


 「やっぱりお似合いじゃね?」


 「いやいや、結城がそんな……でも本当に?」私は黒板に視線を固定し、耳を塞ぐように思考を巡らせた。恋人を作る気など毛頭ない。なのに、どうしてこうも周囲が騒ぎ立てるのか。


 (……これも、彼女の狙いの一部なのか?)


 もしそうなら、私は完全に巻き込まれている。授業開始を告げるチャイムが鳴る。教室のざわめきは静まったが、視線の熱だけは消えない。私はペンを握り直し、深く息をついた。

 ――どうあっても、避けられそうにない。


 放課後になっても、噂の余韻は消えなかった。机に向かい、ノートを閉じるたびに背後から囁き声が聞こえる。正面から面と向かって訊いてくる者はいない。だが、視線と笑いだけで十分だ。


 私はそれらを無視して鞄を肩に掛けた。足早に教室を出る。だが――廊下に出た瞬間、すでに彼女が待っていた。


 「都築くん。」


 結城おうあは、窓際に立っていた。夕焼けの光が彼女の輪郭を縁取り、まるで舞台に立つ役者のように鮮やかだった。


 「君は……噂を知っているな。」


 「ええ。聞こえてたわ。教室中で盛り上がっていたもの。」


 彼女は微笑んでいる。その表情には焦りも苛立ちもなく、むしろ楽しんでいるように見えた。私は胸の奥がざわめくのを覚えた。


 「……あれは誤解だ。私は恋人を作るつもりはないと、君にも言ったはずだ。」


 「でも、誤解って言い切れる?」


 「どういう意味だ。」


 「だって私が望んで、貴方を彼氏にすると言ったんだもの。周りがそう思って当然よ」


 挑発的な言葉。私は思わず眉をひそめた。

 なぜ彼女はこうも揺さぶりをかけてくるのか。


 「私にとっては迷惑だ。無用な注目を浴びたくない。」


 「私は平気よ。」


 「君が平気でも、私が平気ではない。」


 きっぱりと言うと、彼女は少しだけ目を見開き、それから楽しげに笑った。


 「やっぱり面白い。普通なら結城おうあと噂されるなんて光栄だと思うはずなのに。」


 「私は普通ではないらしい。」


 「そこが好きなの。」


 好き、という単語に一瞬心臓が強く跳ねた。私はすぐにその動揺を押し殺す。


 「……軽々しく言うな。意味が歪む。」


 「歪んでいいのよ。真っ直ぐな気持ちだけが全てじゃない」


 彼女の瞳は揺らがない。私の論理を軽々と飛び越えてくる。私は言葉を探しながら、窓の外に目をやった。夕陽が校庭を赤く染めている。


 「君は、本当に何を考えているんだ」


 「さあ、何だと思う?」


 「質問に質問で返すな」


 「でも、答えを自分で探したいんでしょう? 貴方の性格なら」図星だった。私は胸の奥で舌打ちする。確かに私は理由を求める。分からないことを放置できない。彼女はその性質を巧みに利用している。


 「……結局、私を翻弄して楽しんでいるだけではないのか」


 「違うわ」即答だった。結城の表情は真剣で、微笑は消えていた。


 「私は本気よ。遊びでも気まぐれでもない。ただ、私の本心を言葉にするにはまだ時期が早いの」


 「ならば、なぜ今こんな真似をする」


 「時間をかけたら、貴方は逃げるから」


 その一言に、胸が締め付けられた。確かに私は、不可解なものから距離を置こうとする傾向がある。もし彼女が黙っていれば、私は気づかぬふりをして遠ざかっていたかもしれない。


 「……強引だな」


 「強引じゃないと、貴方には届かない」


 その言葉を聞いて、私は返す言葉を失った。結城おうあは、私を理解している。恐ろしいほどに。沈黙が落ちる。廊下には誰もいない。夕陽に染まる静寂の中、私たちはただ向き合っていた。


 「……どうしてそこまで私にこだわる」


 ようやく絞り出した問いに、彼女は少しだけ目を伏せた。長い睫毛が影を作り、唇が小さく動く。


 「答えはそのうち話すわ。でも一つだけ確かなのは――」


 彼女は顔を上げ、まっすぐに私を見つめた。


 「私は諦めない。だから、貴方も覚悟して」


 夕陽の赤が彼女の瞳に宿り、まるで燃えるように輝いていた。私は胸の奥で深く息を吸い込む。彼女の真意は依然として霧の中だ。だが一つだけ理解した。


 ――この関係から逃げることは、もうできない。

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