第十三話第一章
昼下がりの校舎は、どこかゆるんだ空気に包まれていた。昼休みを終えたばかりの廊下には、生徒たちがまだ談笑しながら行き交い、開け放たれた窓からは初夏の風が流れ込んでいる。遠くからは運動部の掛け声やボールの音がかすかに届き、のどかな日常の一部を形作っていた。
都築數款は、その廊下を一人歩いていた。トイレを済ませ、これから教室へ戻ろうとしている。歩幅は落ち着いており、周囲の喧騒に紛れてもどこか淡々とした雰囲気を纏っている。彼は特別に目立つわけではない。成績は優秀だが、クラスで中心に立つこともなく、むしろ「少し変わったやつ」と評されることの方が多い。理由は簡単だ。彼の頭には、常に膨大な知識が詰め込まれているからだ。
科学、文学、歴史、芸術、あるいは生物や言語に至るまで――。どんな話題を振られても、彼は必ず何かしら答えることができる。しかもその内容は、一般的な受験知識の域を超えて、専門家顔負けのものさえあった。
例えば、ある日は「古代メソポタミアの貨幣制度」について語り、またある日は「最新のロケット推進技術」の詳細を説明してみせる。周囲からすれば「なぜそんなことまで知っているんだ」と呆れるほどで、本人は「ただ気になったから調べただけ」と淡々と答えるのが常だった。
そんな彼の性格もあって、クラスでの立ち位置は決して孤立ではないが、誰にでも受け入れられるわけではなかった。
――ただの物知りで終わるならまだしも、ときおり見せる冷静すぎる視点や、唐突に語られる専門的な解説は、時として人を戸惑わせる。本人に悪意がないぶん、なおさら扱いに困る存在とされていた。
その都築が、今まさに教室へ戻ろうと歩いているときだった。
――肩に、不意に強い力がかかった。
「っ……」
反射的に振り向く。
そこに立っていたのは、長い黒髪を一つに束ねた少女。無駄のない動きで制服を着こなし、背筋は真っ直ぐ。冷ややかなほど整った顔立ちは、誰もが振り返る美貌だった。
結城おうあ。校内で知らぬ者はいないと言っていい。バドミントン部のエースにして、生徒の憧れの的。成績も常に上位、しかも運動能力は圧倒的。端正な顔立ちと相まって、まさに「高嶺の花」という言葉がふさわしい存在だった。
その彼女が、今まさに都築の肩を掴んでいる。
「……結城?」思わず名を呼んだ。だが彼女は表情ひとつ崩さず、静かに口を開いた。
「貴方、今日から私の彼氏ね」その一言は、あまりにも唐突だった。
周囲のざわめきが一瞬遠のいたように感じられる。都築は、思考が追いつかずに言葉を失った。廊下を行き交う生徒たちの声や足音は確かに耳に届いているのに、自分だけが別の空間に取り残されたようだった。
「……は?」
やっとのことで絞り出した声は、情けないほど間抜けに響いた。結城おうあは真顔のまま、微動だにしない。その瞳は黒曜石のように澄み、まっすぐに都築を射抜いていた。まるで冗談を言っている様子はない。
彼女の瞳に映る自分を認識した瞬間、都築は心臓が大きく跳ねるのを感じた。
「……いや、ちょっと待て」ようやく冷静さを取り戻そうと、都築は声を低める。
彼は常に理屈を重んじる性格だった。どんな出来事にも理由を求め、納得できる答えを探そうとする。今回のような突拍子もない宣言は、彼にとって最大の混乱をもたらすものだった。
「なぜ、いきなりそんなことを?」問いかけた声は、驚きと困惑を隠しきれない。
しかし結城はわずかに口元を緩めただけで、すぐにまた冷ややかな表情へと戻った。
「理由は、そのうち話すわ。でも今日からは、そういうことだから」
まるでそれが当然であるかのように告げられる。都築は、廊下の空気がわずかに熱を帯びるのを感じた。周囲の生徒たちがちらちらとこちらを振り返っている。高嶺の花である結城と、自分――都築數款。あまりに不釣り合いな組み合わせに、誰もが耳を疑っているのだろう。都築は喉を鳴らし、必死に状況を整理しようとした。
(待て。結城おうあが、私に「彼氏になれ」と言った? これは一種の社会的実験?それとも、男避け?いや、そんな冗談を彼女がわざわざ私相手に仕掛ける理由は……)
頭の中で可能性を並べ立てる。
――悪質なからかい? だが結城はそんな低俗な真似をする性格ではない。
――部活動か勉強で、何かしら利用価値を見出した? だとしても「彼氏」という言葉を選ぶのは不自然すぎる。
――あるいは、ただの突発的な気まぐれ? しかし彼女は感情に流されるタイプではない。
どの推論も、現状を合理的に説明するには至らなかった。
「……受け入れられないな。そんな簡単に言うが……私は恋人を作るつもりはないよ。」率直に告げると、結城の口元がわずかに弧を描いた。
「ふふ。そこが貴方らしいわね」
「……どういう意味だ」
「論理で片づけようとするところよ。でも人間関係って、理屈じゃ割り切れないでしょう?」挑発するような声音。私は息を詰めた。確かに私は常に理屈を優先してきた。それが他人からすれば「変わっている」と映るのも承知している。だが、彼女がそこを突いてくるとは。
「なら、なおさら聞かせてくれ。なぜ私なんだ。」
「気になる?」
「当然だ。私は君にとって何者でもないはずだ。」結城は少しだけ視線を逸らし、廊下の窓から差し込む光を受けて髪を揺らした。その仕草だけで周囲の空気が変わる。彼女が存在するだけで場が支配される――そんな感覚に私は包まれていた。
「……理由はね、貴方が他の誰とも違うからよ」
「違う?」
「ええ。授業中も休み時間も、群れようとしない。けれど、ただ孤立しているわけじゃない。知識を持ち、言葉を選び、冷静に周りを見ている。私は、そういう人を一番信頼できるの。」思いがけない言葉だった。信頼。しかしそれと「彼氏にする」という行動が、どうしても結びつかない。
「……それは友情や協力関係で十分だろう。恋人である必要はない」私が指摘すると、結城は目を細めた。まるで、私が想定どおりの反応をしたとでも言いたげに。
「だから面白いのよ、貴方は。普通なら舞い上がるところを、理屈で拒む。その距離感が、私には新鮮なの」彼女の声は静かだったが、不思議な圧力を持っていた。私は唇を引き結び、胸の奥にわずかな苛立ちを覚える。理屈では測れない相手――それが、私にとってもっとも厄介な存在だ。
「……私は遊びで付き合うつもりはない。」
「遊びじゃないわ。」即答だった。冷たさではなく、確信を宿した声。彼女の真剣さが伝わり、私は言葉を失う。
沈黙ののち、結城は小さく笑った。
「でも、貴方がどうしても拒むなら、仕方ないわ。ただ――」
そこで彼女は一歩踏み込み、私との距離を縮めた。頬にかかる髪がかすかに触れそうになる。
「逃げても無駄よ。私、諦めないから」
挑戦状を叩きつけられたような言葉。私は胸の鼓動が速まるのを抑えられなかった。恋愛感情ではない。これは未知の領域に足を踏み入れたことへの動揺だ。
「……本当に理解できないな」思わず漏れた私の声に、結城は満足そうに微笑んだ。
「それでいいのよ。理解できないまま、私と向き合えばいい」そう告げる彼女の瞳は強く、揺らぎがなかった。私は確信する。
――結城おうあは本気だ。理由はまだ霧の中だが、彼女はただの気まぐれで動いてはいない。
私は恋人を作る気などなかった。今もその意思は変わらない。だが、彼女が仕掛けてきたこの「不可解な関係」から逃れることはできそうになかった。窓の外から吹き込む風が、二人の間をすり抜けていく。教室へ戻る足は止まったまま。結城の視線を受けながら、私はただ一つの問いを胸に抱いていた。
(結城おうあ。君は、何を求めている……?)




