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第十二話第五章

 昼休みの教室は、ざわついていた。原因は、御堂新の言葉だった。

 「やはり、鯉住は芹川さんに相応しくないんじゃないか」


 それは挑発というより、意見表明のように口にされた。だが御堂が言えばそれは単なる「意見」ではなく、空気を作る力を持つ。教室の何人かは頷き、何人かは沈黙し、残りは様子をうかがっていた。


 鯉住悌一は、黙って弁当を食べていた。普段なら気づかないふりをする彼も、今はもう違った。御堂が意図的に自分を追い詰めようとしていることを、はっきり理解している。


 「……どうしてそう思うの?」静かに、華が声を上げた。周囲の空気が少し揺れる。


 御堂は余裕の笑みを浮かべた。

 「理由は単純だ。彼は平凡だ。成績も、運動も、人望も、特筆すべきものはない。転校してきて日も浅い。そんな人間が、なぜ芹川さんの隣に座る? 理解できないだろう」


 「平凡……」と数人が囁いた。教室の空気が、御堂に傾く。


 華は唇を噛んだ。彼女にとって、鯉住はただ静かで、心が澄むような存在だった。それを言葉にしようとしたが、御堂の圧力に遮られる。


 そのときだった。鯉住が箸を置き、静かに立ち上がった。


 「御堂くん」

 

 「お、やっと口を開いたな」

 

 「あなたは、私のことを調べているのですよね。」


 ざわめきが広がった。

 御堂は眉をひそめる。

 「調べる? いや、別に。ただ人づてに聞いただけだ。」

 「なら、知っているでしょう。私の父のこと。」


 空気が変わった。誰もが意外そうに鯉住を見た。


 「……父?」と御堂が目を細める。

 鯉住は淡々と告げた。

 「鯉住誠一郎。自然と風景の画家です。知らない人はいないと思っていましたが。」


 教室がざわめきに包まれた。

 「えっ、有名なあの画家の……?」

 

 「本に載ってたよね。有名画家の……」


 御堂の笑みが、わずかに揺らいだ。


 「それがどうした。芸術家の息子だろうと、お前自身の価値とは別だ」

 

 「そうですね。父の名を笠に着るつもりはありません」


 鯉住の声は穏やかで、しかし一点の濁りもなかった。

 「ただ、私が平凡かどうかを決めるのは、あなたではありません。私と関わってくれる人たちです。少なくとも、芹川さんは『隣にいていい』と言ってくれました」


 華の頬が赤らむ。教室の空気が再び揺らぐ。


 御堂は舌打ちを飲み込むように笑った。

 「なるほどな。だが、父親がどうであれ、お前自身は何も持っていないだろう」


 鯉住は少しだけ目を細めた。

 「……私の祖父のことも、ご存じではないようですね。」

 

 「祖父?」


 「鯉住重蔵。御堂家の会社の筆頭株主です。」


 瞬間、教室のざわめきが爆発した。

 「えっ、御堂の会社って……」

 

 「株主? 筆頭って……」


 御堂の表情が固まった。鯉住は続ける。

 「私はその家に生まれました。ですが、それを力にするつもりはありません。父の名も、祖父の資産も、私が持って生きるものではない。ただ、あなたが言う『平凡』という言葉は、事実とは少し違うように思います。」


 御堂は、初めて明確に言葉を失った。


 「僕は……」と声を絞り出す。

 しかしその先が続かない。権力も財力も、己の後ろ盾にしてきたものが、今この場では逆に自分を縛っていた。


 鯉住は淡々と告げた。「決着をつける時が来たようですね。」


 その言葉に、教室中の息が止まる。

 「私とあなた、どちらがここで隣に立つべきか。それは力や名前ではなく、選ぶ人が決めることだと思いますが、」


 鯉住の瞳には怒りも誇りもなく、ただ静かな決意だけが宿っていた。


 華は彼を見つめ、その横顔に強さを感じていた。御堂は笑みを装いながらも、手のひらに汗が滲むのを止められなかった。


 ――次は、この場で決着をつける。

 鯉住の言葉は、静かにそう告げていた。


 放課後の教室に残るざわめきは、まだ冷めきっていなかった。昼休みのあの出来事――御堂新と鯉住悌一が真正面から言葉を交わした場面は、同じクラスの生徒たちに強烈な印象を残していた。御堂が追い詰めようとしたはずの鯉住が、逆に静かな一言で場をひっくり返したのだ。


 「……まさか、あの鯉住が」

 

 「やっぱすげえよな……父親も祖父も、とんでもない人じゃん」

 

 「でも本人は全然偉そうにしないし……むしろ普通にしてるのがすごい」


 そんな声が残る中で、芹川華は机に頬杖をつき、窓の外に目をやっていた。夕陽に照らされた街並みが赤く染まり、彼女の胸の奥にも奇妙な熱を残していた。


 ――あの時、鯉住くんは言った。

 「芹川さんが隣にいていいと言ってくれた」


 その言葉が心に刺さったまま離れない。

 ただの一言。それだけなのに、まるで告白を受けたかのように胸が締めつけられる。


 「華、大丈夫?」


 隣に座ったのは友人の佐伯里佳だった。明るい性格で、華とは中学からの付き合いだ。彼女の視線はどこか探るようで、少し困ったような笑みを浮かべていた。


 「さっきからぼーっとしてる。やっぱ気になるんでしょ? 鯉住くんのこと」

 「……うん」

 「やっぱり!」


 里佳は机を軽く叩き、声をひそめた。

 「私もさ、正直びっくりしたよ。御堂くんがあんなに押してくるなんて思わなかったし。でもさ、華のこと、本気で守ろうとしてたのは鯉住くんの方だったんじゃない?」


 華は言葉を失った。友人の目は真剣だった。

 「華、今まで告白されても全部断ってきたじゃん。理由、みんな知ってるよ。『自分をちゃんと見てくれる人がいい』って。でも鯉住くんは、まさにそれじゃない?」


 「……私のことをちゃんと見てくれる人」その言葉を繰り返すと、胸の奥で何かが温かく広がった。


 窓の外、夕暮れの空に一番星がかすかに瞬いている。華は小さく息を吸った。

 「……私、伝えたい」

 

 「うん、そうだよ。華なら絶対大丈夫」里佳は力強く頷き、笑顔で背中を押した。


 夜、華は自室で机に向かっていた。開きっぱなしのノートの文字は目に入らない。代わりに思い浮かぶのは、鯉住の横顔。いつもどこか遠くを見ている彼。青い空や白い雲に視線を預ける姿。

 ――そんな彼の隣に、自分は本当に立てるだろうか。


 心は不安と期待で揺れ続けた。それでも、明日を待つ気持ちは確かにあった。

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