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第十一話第一章

 四月の風はまだ冷たさを残しながらも、校門の桜並木を淡い薄紅に染めていた。

 県立東高校の入学式。校庭では、新入生の制服が一様に整い、緊張の面持ちで並んでいる。空は雲ひとつなく晴れ渡り、まるで新しい始まりを祝福するかのようだった。


 伊藤應正(いとうのうせい)は、その列の中にいた。黒縁の眼鏡を押し上げ、周囲を観察するように目を走らせる。彼は幼い頃から成績優秀で、勉強に関しては常に学年トップを争うほどだった。しかしその反面、運動や人間関係に対しては淡白で、特定の趣味に熱を上げることもなかった。


 ――まあ、高校なんて三年間。大学進学の通過点にすぎない。


 應正の心は冷めていた。新しい制服に袖を通しながらも、周囲の新入生が期待に目を輝かせている様子をどこか他人事のように眺めていた。


 入学式が終わり、各クラスに分かれての最初のホームルーム。自己紹介を終えた應正は、早くも退屈を覚えていた。教師の言葉を聞き流し、窓の外の桜を眺める。


 ――部活の説明会? 興味ないな。どうせ時間の無駄だろう。


 その日、体育館では新入生歓迎の部活動紹介が行われていた。運動部も文化部も、先輩たちがステージに上がり、大きな声と派手なパフォーマンスで勧誘を繰り広げる。歓声と拍手に包まれる空間の中で、應正は終始無表情だった。


 野球部が声を張り上げ、ダンス部がリズムに乗って舞い、演劇部が寸劇を披露する。場内は盛り上がるが、應正は心の奥で冷めた声を響かせていた。


 ――時間と体力を使って、何が残るんだ。勉強に集中していればいい。


 配布された部活動一覧のプリントを見ても、心を動かすものはなかった。サッカーもバスケも、自分には向いていない。囲碁将棋、文芸、写真……どれも中途半端に興味を引くが、実際に足を運ぶほどではない。


 結局、應正は教室に戻ることにした。


 廊下を歩けば、各部活の先輩たちが勧誘のビラを配り、声を張り上げている。笑顔で腕を引っ張るような光景に、彼は小さくため息をついた。

 ――どうせ、三日坊主で辞めるやつが大半だろ。


 冷ややかな目でその光景をすり抜け、静かな教室へと戻る。まだ誰もいない机に座り、鞄から本を取り出した。分厚い数学の参考書だ。


 「やっぱり、ここが一番落ち着く」

 独り言のように呟き、ページをめくった。外の喧騒など存在しないかのように、数式の世界に没頭しようとした――そのときだった。


 ガラリ、と勢いよく扉が開く音が響いた。


 「やっと見つけた!」


 明るい声が教室に飛び込んでくる。應正が顔を上げると、そこに立っていたのは二年生らしき女子生徒だった。


 セミロングの髪を後ろで軽くまとめ、首元には赤いリボン。背筋はすっと伸び、快活な印象を与える。制服の胸元には「山口」と刺繍された名札が光っていた。


 「……私?」應正は思わず眉を上げた。


 「そうそう、新入生だよね?」女子生徒はにっこりと笑みを浮かべた。「私は二年の山口桃子。吹奏楽部でクラリネットをやってるの。君、まだどこの部活にも行ってなかったでしょ?」


 應正は困惑気味に返した。「ええ……まあ。でも、私は別に……」


 「勧誘に来たの!」桃子は明るい調子を崩さない。「教室に戻っちゃう子って、なかなか声をかけてもらえないのよね。だから探したんだ。」


 應正は一瞬言葉を失った。廊下にあふれる部活勧誘の声の中で、わざわざ自分を探してここまで来た――その事実に、わずかに心が揺れる。


 「でも私、楽器とか触ったことないし。」


 「大丈夫!」桃子は一歩踏み込むように机に手をつき、応正を覗き込む。「吹奏楽部ってね、初心者から始める人も多いんだよ。クラリネットだって、最初はみんな音が出なくて当たり前。でも、続ければ必ず音楽になる。絶対に楽しいよ」


 その瞳は真剣だった。軽いノリではなく、本気で勧誘しているのが伝わる。


 應正はわずかに視線を逸らした。

 ――どうして、こんな必死なんだ。私みたいに興味なさそうなやつにまで。


 「……私、音楽とか、よく分からないんだ」


 「分からなくてもいいの。分かるようになるから」桃子は迷いなく答えた。「私だって最初は全然ダメだった。でも、続けてたら気づいたの。音楽って、上手い下手だけじゃない。仲間と一緒に音を出してると、すごく温かい気持ちになれるんだよ。」


 その言葉に、應正の心がわずかにざわめいた。

 ――仲間と一緒に……温かい気持ち。私には、そんな感覚、あっただろうか。


 「君、名前は?」桃子が問いかける。


 「伊藤……應正」


 「應正くん、ね。うん、いい名前」彼女は小さく笑みを浮かべる。「じゃあ、應正くん。ちょっとだけでもいいから、部室見に来ない?」


 應正は返答に迷った。本当は断るつもりでいたのに、その笑顔に「いやだ」と言うことができなかった。


 「……少しだけなら」


 その答えを聞いた瞬間、桃子の顔がぱっと明るくなった。

 「やった! じゃあ、案内するね」


 應正は鞄を閉じ、立ち上がった。自分でも信じられなかった。部活なんて興味がない。そう思っていたはずなのに、この女子生徒に引っ張られるように、歩き出していた。


 昼休みの終わり近く、僕――應正は吹奏楽部の部室に足を踏み入れていた。

 特別棟の一角にあるその部屋は、予想以上に雑然としていながらも、妙に落ち着いた空気を漂わせている。壁際に並ぶ金管楽器のケース、棚に積まれた楽譜、そして空気に混じるオイルと木の香り。どこか懐かしく、同時に胸の奥をざわつかせる匂いだった。


 次々と先輩や部員たちが自分の楽器を披露してくれる。

 トロンボーンの低く豊かな音。フルートの透明感。サックスの甘い響き。どれも心に響くはずなのに――僕はどうしてか一歩引いてしまう。


 かつて音楽に全力を注いでいた頃の自分が、頭の片隅で息を潜めている。その記憶が、胸を強く締めつける。

 ――あれからは、もういいんだ。音楽なんて。

 そう言い聞かせてきた。

 

 「どう? 何か気になる楽器あった?」声をかけてきたのは桃子だった。同じクラスでいつも明るく、周りの空気を柔らかく変えてしまう存在だ。


 「うーん……正直、無いな。」僕が淡々と答えると、桃子は少し目を丸くして、それからにやりと笑った。


 「そっか。でもね――」

 机から黒いケースを取り出し、パチンと留め具を外す。中に収まっていたのは漆黒のクラリネットだった。銀色のキーが光を受けて、どこか凛とした表情を見せる。


 「これ、私のクラリネット。ちょっと吹いてみる?」


 差し出された瞬間、僕の口が自然に動いていた。

 「……それ、山口さんが吹いてるやつだよね」


 一瞬、桃子の笑顔が止まった。

 「え、うん。西宮先輩、三年生だから。今は一緒に練習してるけど、これは私の楽器だよ。」


 その名前を聞いただけで、胸の奥がざらついた。西宮――去年まで全国コンクールを目指して、強引に部員を引っ張っていった中心人物。そのやり方の犠牲になった後輩の話は、僕の耳にも届いている。何より、かつて自分が味わった「音楽に押し潰された記憶」と重なり、無意識に身構えてしまう。


 桃子は笑顔でクラリネットを差し出した。應正は手を伸ばしかけて、ふと止まった。

 「いや……壊したら悪いし」

 そう言ったあと、視線をそらしながら、ぼそりと付け足す。

 「しかも、それ……山口さんが口つけて吹いたやつだよね」


 桃子はきょとんと目を瞬かせたあと、ふっと笑った。

 「そうだけど? 気にしすぎだよ。ちゃんと拭けば大丈夫。これは本当に私の楽器だから。應正くんが嫌なら無理にとは言わない。でもね、音を出すって楽しいんだよ。聴くだけじゃわからないこともあるから。」


 そう言って彼女は、クラリネットを両手で持ち直し、自分の唇にあてた。軽く息を吹き込むと、すっと柔らかな旋律が部室に広がる。春先の風みたいにやさしく、心の壁を撫でていく音だった。


 ――やめろよ。そんな音を聴かせるな。

 心の中で呟きながらも、耳は勝手に奪われていた。あの頃、自分がどれだけ必死に音を追いかけていたか。どれだけ音楽にすべてを賭けて、最後には挫折したか。その記憶が渦を巻きながら蘇ってくる。


 吹き終えた桃子が、再びクラリネットを僕に差し出した。

 「ね、今度は應正くんの番。」


 僕はしばらく無言で見つめていた。

 やりたくない。だけど――体の奥底では、指がもうその形を覚えている。過去の練習の記憶が、嫌になるほど染みついている。


 ため息をひとつつき、結局、クラリネットを受け取った。軽い。けれど、その軽さの中に、ずっしりとした過去の重みを感じる。


 「ちゃんと持ててる。口はこうして……そうそう。」桃子が丁寧に教えてくれる。だが僕の体は、説明が終わる前から正しい姿勢を作っていた。自然と、指がキーを押さえ、息の流し方も思い出す。


 ――。


 部室に、低く不器用な音が鳴った。けれどそれは「初心者の失敗音」とは違う。基礎を知っている者だけが出せる、確かな鳴り方だった。


 桃子の目が一瞬、驚きに見開かれる。「……やっぱり、應正くん。音楽やってたんだね」


 その言葉に胸が痛む。認めたくない過去を、あっさりと見抜かれた気がして。「昔の話だよ。もうやらないって決めたから」


 クラリネットをそっと返そうとすると、桃子は小さく首を振り、微笑んだ。「そう思ってても、体は覚えてるんだね。だったら……また吹いてもいいんじゃない?」


 やめろ、と言いかけた声は喉で止まった。クラリネットの冷たいキーの感触が、まだ指先に残っていたからだ。


 沈黙が、二人のあいだに流れた。窓の外では、風に散らされた桜の花びらがひらひらと舞い込み、床に落ちていく。應正は視線をその花びらに追いながら、言葉を探していた。


 「……もういいんだ。音楽なんて、私には」

 ようやく吐き出した声は、自分でも驚くほど小さかった。


 桃子はすぐには答えなかった。ただ、クラリネットを抱えたまま、少し首を傾けて應正を見つめる。その瞳には、からかいも同情もなく、ただ真剣さだけが宿っていた。


 「應正くん」

 呼ばれた名前に、肩が小さく震えた。


 「私ね、最初は全然吹けなかったんだ。音が裏返ったり、指がもつれたり。先輩に笑われて、恥ずかしくて帰りたくなったこともあった」

 

 桃子は笑いながらも、どこか遠くを見るように言葉を続ける。

 「でもね、不思議と辞めたいとは思わなかった。たぶん……音を出した瞬間、心の奥が温かくなるからだと思う。うまくできなくても、その一瞬がすごく大切に思えるんだ。」


 應正は黙っていた。けれど、桃子の言葉が胸の奥の記憶を刺激する。

 ――あの頃も、そうだった。音が響いた瞬間だけは、世界のすべてが自分を祝福している気がした。


 「だからね、應正くんがもし音楽を嫌いになったんじゃなくて……ただ、怖くなっただけなら」

 桃子は一歩、彼の机に近づいた。

 「その怖さも一緒に抱えながら、もう一度やってみてもいいんじゃない?」


 その声音は優しいのに、逃げ場を与えないほど真っ直ぐだった。


 應正は思わず目を逸らした。だが、机の上に置かれたクラリネットが視界に入り、指先がむずむずと疼く。

 ――吹きたい。いや、違う。吹きたくなんか……。


 「昼休み、あと少しで終わっちゃうね」

 桃子が軽く肩をすくめる。

 「じゃあ今日はこれでおしまい。でもね、應正くん」


 彼女はにっこり笑った。


 「明日も、ここで待ってるから」


 その一言が、應正の心を強く揺さぶった。

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