第59話 恥ずかしいこと
北高の文化祭「北灯祭」まで、残り1週間。
七海は、医学研究会の「出し物」の準備で、忙しくしていた。
研究成果を、ポスターとして貼り出す。御影、夢咲、美月のチームが、後輩たちと担当している。来場者のために、わかりやすく、ビジュアルにも気をつけて、ポスターが作られている。
そして医学研究会は、消防署の方々に来てもらって、『普通救命講習』の簡易版を実施する予定だ。七海とカイオが、後輩たちと担当する。カイオのコミュニケーション能力の高さに、助けられている。
なお、七海のいるクラスの出し物は、お化け屋敷。そちらの準備は、クラスメートたちに任せてある。本番だけ、昨年同様に「広告塔」として、御影と一緒に、数時間、校内を回ることになっている。
医学研究会の部室にて。
部員のみんなが忙しく動いている中、七海は、休み時間をもらった。七海は、パソコンの前に座り、論文検索をしている。何か、みつけたようだ(※1)。
七海「『恥(shame)』は、『ありのままの自分が、悪い・劣っている』という感情。『罪悪感(guilt)』と違い、行為ではなく、『ありのままの自分の価値の低下』につながる。強い恥は、他者から『拒絶される恐怖』と直結する」
七海は、先日のことを思い出している。七海は、「ありのままの自分」に、価値を感じていない。だから、それを御影に知られることを、「恥ずかしい」と思っている。
七海「親しい他者が、自分の『恥ずかしい失敗』に対して態度を変えず、受け入れてくれると『安心感(felt security)』が強化される。それが、健全な自尊心の発達を支え、『ありのままの自分』の価値を高める』
ずっと、可愛いお人形みたいな「モノ」としてみられてきた七海。誰も、「ありのままの七海」、特に「七海の内面」に関心をみせなかった。だから七海は、「ありのままの自分」が無価値であると感じてきた。
御影は、「七海の内面」を理解しようとしてくれた、初めての男性だった。
男性の多くが、七海のことを「モノ」として所有し、自慢したいと感じている。その事実を、御影が、論文を通して教えてくれた。そして、七海がそれを「こわい」と感じていることを、心配してくれた。
御影の存在は、七海にとって自尊心の根源であり、自分のすべてになった。
——蓮くんは、私のすべて。でも、蓮くんだって「モノ」じゃない。感情のある人間。だから私は、蓮くんに「拒絶される恐怖」を感じている。蓮くんに拒絶されたら、私は、「モノ」に戻ってしまうんだ
しかし七海は、なぜ、自分が御影に選ばれ、愛されているのかがわからない。もちろん、「モノとしての七海」のことも愛してくれている。しかし御影は、「ありのままの七海」を、確かに、愛している。
——大切な人が、大切にしていることは、理由を問うことなく、大切にする。
それは、「あるべき態度」の話に過ぎない。空中戦だ。地上戦、自分の「ほんとうの心のありよう」を、無視してはいけない。そして七海は、「御影が自分のことを大切にしてくれる理由」が知りたい。
——じゃあ、私が、蓮くんのことが大切なのは、自尊心が得られるから? ちがう! 絶対に、ちがう! 私自身が、どうして蓮くんのこと、こんなに好きなのか、その理由、わからない
御影に理由を聞いたところで、きっと「七海のことを愛している理由」なんて、御影にもわからない。誰にも、わからないのだろう。
七海は、論文ではなく、普通にネット検索を始める。「誰かを愛する理由」。そんな論文、あるはずない。あっても、きっと信用できない。七海は、そう思った。
七海は、しかし、ネット検索結果のどれにも、まったく、納得がいかない。それから、ひとつの「表現」にたどり着いた。
七海「『愛は、この世に存在する。きっと、ある。見つからぬのは、愛の表現である。その作法である』」
太宰治の著作『思案の敗北』に書かれている言葉だった。
——「こういう理由で、愛してる」って、表現できない。だからこそ、「愛は、きっと、ある」としか言えないんだ。『思案の敗北』……うまいこと、いうなぁ
それは「きっと、ある」と、信じるしかない。
だが、これも「うまい表現」にすぎない。つまり、空中戦だ。空中戦も、大切だ。しかし地上戦では、「拒絶される恐怖」が襲ってくる。不安で、仕方がない。
信じるために、相手に理由を聞いても、無駄なのだろう。であるなら、「愛されるに値する自分」であることが、不安を減らすための前提になりそうだ。
——私の「ありのままの自分」は、とても、蓮くんの愛に値するような人間じゃない
先の論文に書かれていたこと。「恥(shame)」は、「ありのままの自分が、悪い・劣っている」という感情。七海の中で、カチッと音がする。
——蓮くんに、愛されている。嬉しいのに、私、それが、恥ずかしいんだ
——「ありのままの自分」は、弱くて、誠実じゃなくて、カンニングだってする。偽物
——私は、強くて、誠実な人間になりたい。そうじゃないから、恥ずかしいんだ
七海は、「誠実さ」とは何か、検索してみた。
七海「嘘いつわりがなく、心の底から思って事に当たるさま。実直でまじめなさま。または、その度合い」(実用日本語表現辞典)
——やるからには、必死であれ
——自分の学ぶべきことは、自分で決める
——私は、誠実さを学びたい。そして、蓮くんの隣にいても、恥ずかしくない人間になりたい
七海は席を立ち、文化祭の準備に戻っていく。
七海の目は、狂おしそうに御影を探していた。
こうして、第59話までお読みいただけたこと、本当に嬉しいです。ありがとうございます。
少しでも、読めるところがあったなら、是非とも☆評価をお願いしたいです。執筆の励みになると同時に、明日もまた頑張っていこうという気持ちになります。
さて。
絶対に知られたくない、見られたくないことが、相手に知られる、見られる。長期的な交際関係であれば、当たり前のことです。そうしたことを乗り越えてこそ、本当の信頼関係(深い安心感)が生まれます。当たり前のことですが、意外と、意識しにくいことかもしれません。
引き続き、よろしくお願い致します。
参考文献;
1. Mills, R. S. L. (2005). Taking stock of the developmental literature on shame. Developmental Review, 25(1), 26–63.




