第56話 初恋ではない場合
楢崎 夢咲が、長谷川 健太との交際を始めて、ちょうど1ヶ月が経った。
そんな記念日の前夜、夢咲は、前の彼氏の夢を見た。初恋の彼氏だった。しかし些細な喧嘩から立ち直ることなく、別れてしまっていた。
寝起き、パジャマ姿で、夢咲は、寝ている間に流れていた涙を拭う。
長谷川との交際は順調なのに、どうして。
自分のことが嫌になり、余計に涙が止まらなくなる。長谷川が「楢崎さんが、俺の初恋なんだ」とテレながら、嬉しそうに話していた姿が思い出される。
夢咲の、独り言が漏れる。
夢咲「長谷川くんに対して、誠実じゃない。こんなの、許せない」
◇
朝の通学路。夢咲は、長谷川と並んでふたり、北高に向かう。
長谷川「今日は、俺たちが付き合い始めてちょうど1ヶ月だね。夢みたい。俺、幸せだよ」
夢咲「うん」
長谷川「どうしたの? 楢崎さん、元気ないよ?」
歩みを止め、何かを決意する夢咲。隣から急にいなくなった夢咲に気づき、長谷川は、歩みを止めて振り返り、夢咲をみる。
夢咲「あ、あのね?」
長谷川「な、なに?」
夢咲「私、長谷川くんのこと、前よりもずっと好き。これから、もっともっと好きになると思う」
長谷川「嬉しい。俺もだよ」
夢咲「……」
長谷川「どうしたの?」
夢咲「前の彼氏が……夢に出てきちゃったの」
長谷川「……」
夢咲「ご、ごめんね! 嫌だよね! もう、私のこと、嫌いになるよね!」
夢咲の目に、涙が溜まっている。長谷川はその時やっと、夢咲の目が腫れていることに気づく。
長谷川「もしかして、それで、ずっと泣いてたの?」
夢咲「うん。ごめんなさい……」
長谷川「前の彼氏が夢に出てきたくらいのことで、君のこと、嫌いになったりしない」
はっきりした、口調。長谷川は、自分の言葉をあまり省略しない。だから長谷川は、他人から誤解されにくい。夢咲は、この長谷川の話し方が好きだ。
一瞬、すがるような目つきで、長谷川を見る夢咲。しかし、下を向いてしまう。
夢咲「うそ」
長谷川「嘘じゃないよ。大丈夫だよ、楢崎さん」
夢咲「……」
長谷川「とにかく、学校いこう。遅れちゃうから」
長谷川が、夢咲の手を取る。夢咲の表情が、少しだけ赤く、明るくなる。
◇
昼休み、ランチタイム。
北高の屋上に6人がいる。七海、御影、美月、カイオ、夢咲、長谷川。記念日がお祝いされる。「1ヶ月、おめでとー!」。夢咲の元気がないことに、みんな気づいている。
一旦、夢咲には触れず、いつものように、わちゃわちゃあって
長谷川「先輩方に、相談に乗って欲しいことがあるんだ」
その声のトーンで、みんなが静まる。
長谷川「楢崎さん、自分で話せる?」
夢咲が、小さくうなづく。少しして
夢咲「前の彼氏が……夢に出てきた。私、長谷川くんのこと好きなのに……ちゃんと……前の彼氏のこと、忘れないとなのに」
美月「……」
カイオ「夢でしょ? そんなことで破綻する男女関係なんて、ないと思うけど。なあ、健太」
長谷川「うん。あ、気にならないわけじゃないよ。嫉妬する。でもさ、夢でしょ?」
夢咲「……夢の中で、私、前の彼氏に優しくされた。これって、私がそう望んでるってことじゃないの? 私、長谷川くんのこと、裏切ってる」
カイオ「夢咲、あのさ。男子だったらわかると思うけど、男子の夢には、グラビアアイドルだったり、教師だったり、彼女以外にもいろんな女性が出てくるの、当たり前だよ?」
七海「そうなの?」
目線を御影に向けながら、七海が聞く。
御影「そういうものかと……思われます」
七海「えー、ショック」(しょぼん)
美月「健康な男子なんて、そんなもんだよ。でも、夢じゃなくて、現実が重要でしょ? 夢咲も七海も、そんなこと気にしなくていいって」
御影「でも、気になるんだろ? 夢咲」
夢咲「うん」
御影「七海、美月、夢咲。放課後、医学研究会で、一緒に調べてみよう」
長谷川「あ、御影くん、俺も行っていいかな? みんながやってる論文検索、興味あるんだ」
七海「でも、長谷川くん、放課後は部活でしょ? 大事な大会前だって聞いてるけど」
夢咲「長谷川くん、嬉しいけど、部活行って欲しい。私のために、練習サボって欲しくない。大会で活躍する長谷川くんのこと、誇らしい気持ちで、みたい」
御影「長谷川、また今度にしよう。夢咲は、一切、嘘ついてない。無理してない」
カイオ「俺も、悪い。バスケ部の練習ある」
長谷川「わかった。そうする。でも、論文検索の結果は、グルチャで教えて欲しい」
◇
放課後、医学研究会の部室では、医療ドキュメンタリーの上映会が行われていた。
部室の後ろの方には、薄暗い中、3台のパソコンの前に、御影、七海、美月と夢咲がいる。夢咲は、論文検索はできない。夢咲は、椅子の後ろから、七海の首に抱きついている。
美月「夢咲。あんた、そっちの方が、まずいよ。それ、浮気なんじゃないの?」
夢咲「違う。そういう気持ちで、七海に触ってるわけじゃないから。私が許せないのは、ああいう夢をみる自分のこと。七海に抱きついている自分は、別に、不誠実じゃない」
七海「うん。それわかるから、私も大丈夫だよ」
美月「あらためて難しい奴だな、夢咲は」
御影が受賞した「文化活動優秀賞」のおかげで、医学研究会の予算は増額されていた。その予算で、医学研究会は、こうしたパソコン環境を整えている。
御影「あった。アブストラクトの内容、グルチャにもあげてく」
七海「私も、関係しそうなの、見つけた」
美月「早いよ、君たち。私は、翻訳ソフト使いながらだし、厳しいな。もう少し時間ちょうだい」
◇
これまでの5人に、長谷川を加えた6人のグルチャ内。御影が、先陣を切る。
御影「まず、夢を『潜在的な願望の充足』という仮説を述べたのは、心理学者、フロイト」
御影「この仮説は、脳科学によって、1977年までには否定されている(※1)」
美月「寝ているとき、みる夢は、その人の願望じゃないってこと」
御影「夢は、脳幹からのバラバラな神経入力を、皮質が勝手にストーリー化して体験される。脳が、勝手に作る物語ってことだ。偶発的、自律的であることが、この論文では強調されてる」
七海「じゃあ、蓮くんの夢に、他の女の人が出てくるのも、願望とは違うってことでいい?」
御影「そういう願望がないといえば、嘘になる。でもとにかく、夢は、願望じゃない」
七海「なんだか、納得できないんだけど」
美月「あんたら、痴話喧嘩は別でやりなさい」
七海「ごめん。私の見つけた論文、行きます」
七海「強い感情を伴う出来事。つまり初恋などの記憶は、通常よりも記憶が鮮明で長く保持されやすい(※2)」
七海「特に、脳の学習効率がピークになる、思春期の記憶は、残りやすい(※3)」
御影「何度も思い出す人は、自分にとって『特別な人』だと誤解しやすい」
美月「そうじゃなくて、脳科学的な『現象』にすぎない」
長谷川「前の彼氏を思い出すからといって、前の彼氏が特別なわけじゃない?」
カイオ「何度も思い出すからといって、過去の恋が、いまの恋よりも上ってことはない?」
御影「お前ら、部活は?」
長谷川「気になっちゃって、ベンチでスマホ見てる」
カイオ「こっちは、休憩中」
御影「そう思う。初恋を何度も思い出すのは、単純に、初めての経験が強烈な刺激となって、記憶に強く刻まれるから」
御影「だから、初恋>今恋、みたいなのはない。むしろ、今恋>初恋だからこそ、今恋が続いてると考えた方が健康的」
七海「私と蓮くんは、初恋同士だよね? じゃあ、私との恋以上の恋を、蓮くんは、他の誰かとしちゃうの?」
美月「七海、よそでやれ。今は、夢咲のこと」
七海「ごめんなさい」
美月「私も、行くよ」
美月「初恋を『いまの自分を形づくった大切な経験』『誰かを深く好きになれる自分の証』と捉え直せ
(※4)」
美月「夢咲。あんた、前の彼氏で恋愛経験を積んだ。そして別れたから、長谷川くんと一緒になってる。夢咲の今の幸せは、前の彼氏との経験があったから」
カイオ「前の彼氏に未練があるわけじゃない。前の彼氏に優しくしてもらいたいわけじゃない。そんな願望はない」
美月「カイオ、バスケ練習しろ」
長谷川「楢崎さんが、前の彼氏と別れてくれていて、俺は、本当にありがたい。前の彼氏は、俺にとっても『いまの自分を形づくった大切な人』ってこと」
長谷川「だから、前の彼氏のこと、無理に否定しないで。良い思い出もあるんだと思う。そういう良い思い出は、楢崎さんにとって、きっと大切なんだと思う。嫉妬するけどね」
——大切な人の、大切なことを、理由を問わずに、大切にする。
七海「夢咲。こういうことだよ。夢咲は、ただ、可愛くて、優しくて、誠実で、長谷川くんのことが大好きなの」
御影「そういうことだ。夢咲、何もおかしなことはない」
夢咲「みんな、ありがとう。すっきりした。でも、もう一つお願いある」
美月「?」
夢咲「私、それでも、前の彼氏のこと、思い出したくない。思い出しちゃったら、どうすればいい?」
御影「あるよ、論文。思い出したくないことを思い出したら、頭の中で、何か複雑なことをすれば、記憶の鮮明さや、そこから来る感情を抑えられる(※5)」
夢咲「わかんない」
御影「『前の彼氏に優しくされて嬉しかったこと』を思い出したくない記憶だとして」
夢咲「うん」
御影「それを思い出しちゃったら、『昨日の夕飯、なんだったっけ?』と考える。できるだけ、正確に」
夢咲「『長谷川くんが、前のデートで着てた服、どんなだったっけ?』でもいい?」
御影「いいと思う」
長谷川「俺、服、そんな持ってない。だから、あんまり複雑にならないかも」
夢咲「でも、昨日の夕食のことじゃなくて、長谷川くんのこと、考えたい」
長谷川「じゃあ、今度、一緒に服を買いにいこ。俺、センスないから、選んで欲しい」
夢咲「うん。嬉しい。みんな、ありがと」
◇
ちょうどその時、医学研究会の医療ドキュメンタリー鑑賞会が終わった。
医学研究会の後輩たちが、感動して泣いている。この部室に同居している数学同好会メンバーまで、「うわーん」と泣いている。
夢咲「あんたら、うるさいよ! もちっと、静かにせえ!」
窓の外には、夕焼けが広がっていた。きっと、大丈夫だ。
第56話まで、お読みいただきました。本当に、ありがとうございます。嬉しいです。
少しでも、読めるところがあったなら、是非とも☆評価をお願いしたいです。執筆の励みになると同時に、明日もまた頑張っていこうという気持ちになります。
さて。
夢は、潜在願望を満たすものではありません。これは、脳科学的な事実です。
初恋や思春期の恋って、後を引きますよね。でもだからって、その恋が特別というわけではありません。特別なのは、常に、今の恋です。目の前の恋を、幸せに長続きさせること以上に、重要なことなんてありません。
引き続き、よろしくお願い致します。
参考文献;
1. Hobson, J. A., & McCarley, R. W. (1977). The brain as a dream state generator: An activation-synthesis hypothesis of the dream process. The American Journal of Psychiatry, 134(12), 1335–1348.
2. Phelps, E. A. (2004). Human emotion and memory: Interactions of the amygdala and hippocampal complex. Current Opinion in Neurobiology, 14(2), 198–202.
3. Rubin, D. C., Rahhal, T. A., & Poon, L. W. (1998). Things learned in early adulthood are remembered best. Memory & Cognition, 26(1), 3–19.
4. Tashiro, T., & Frazier, P. (2003). “I'll never be in a relationship like that again”: Personal growth following romantic relationship breakups. Personal Relationships, 10(1), 113–128.
5. van den Hout, M. A., & Engelhard, I. M. (2012). How does EMDR work? Journal of Experimental Psychopathology, 3(5), 724–738.




