第55話 ある日、ランチなど
ある日。
七海と御影は、寝坊してしまった。大慌てで支度をし、学校へと向かうふたり。
午前中の授業が終わり、昼休みのチャイムが鳴って3分。
今日は、寝坊のため、七海と御影の弁当はない。だから今日のランチは、購買部でなにか買って食べる必要があった。
チャイムダッシュで、たどり着いたところ。購買部の前では、すでに並ぶ列が折れ曲がっていた。
パンの匂い、紙袋の擦れる音、笑い声。掲示板には文化祭の係の分担が貼り出され、そこにも人だかりができている。
七海は列からまだ距離のある場所に立ち、肩で息をしている。そして、トートバッグの、太めの肩ひもを指でつまんでいた。教室から七海のすぐ後ろを走ってきた御影が、そんな七海の後ろから、優しく声をかける。
御影「七海。ほら、あっち。並ぼ」
ハアハア言いながら、後ろを振り返る七海。七海は、それから顎をあげ、呼吸を整え、御影の目をのぞき込んだ。
青空の青を一滴、透き通る水玉に垂らしたみたいな、薄青い、キレイな目。七海は、そのまま微笑をたたえ、動かないでいる。七海は、呼吸をしているのか、していないのかさえ、わからない。動かない。
御影「ほ、ほら七海。ぼーっとしてないで、並ばないと」
七海はやっと、周囲の視線を意識する。御影は、目線だけでキョロキョロしている。七海は、それでもまだ、あえて、御影の目から視線を離さない。
七海「もうちょっと、こうしてる」
御影「だって、買わないと、ランチ」
七海「バカップル、やらないとでしょ」(小声)
御影「そうだけど、ランチ……」
少し顔を赤くする御影。御影は、七海の手を取って、購買部の列、最後尾に向かう。恥ずかしそうに、七海の手を引く御影と、同じく恥ずかしそうに手を引かれる七海。七海のほうが、顔が赤い。
秋の始まりに色づく中庭からの光が、七海と御影の姿を目で追う生徒たちに、逆光になる。そのシルエットから、目を離すことができないでいる生徒たち。
先を急ごうとする、御影の身体。七海は、その速度に追いつけない。御影は、七海の腕を「グイ」とはしない。前に行きたがる身体のほうを、七海の速度に合わせようと、御影がのけぞる。
のけぞる御影の背に、ポスッと顔から突っ込む七海。御影が「ごめん」と振り返る。七海は、御影の匂いを吸い込む。スイッチが入る。七海、御影に抱きつく。
七海「蓮くんの匂い、好き」
御影「ほ、ほら、並ばないと……」
七海「いや。もう少し、こうしてたい。好き」
行き場を失って、宙に浮いていた御影の腕が、ゆっくり、優しく七海の背に収まる。
中庭の方を向いていた七海の顔が、目を奪われている生徒たちのほうに、向きを変える。
逆光で、よく見えないはずなのに。
七海の、「幸せの定義」みたいな表情が、それをみるものから思考を奪う。冷やかしや、呆れることなど、できない。ただ、みていることしかできない。
七海と御影は、そのまま、静止画のごとく動かないでいる。購買部に連なる列も、購買部の販売員も、動けなくなってしまった。しばらくの、静寂。
夢咲「ちょっと、あんたら! よそでやれ、よそで! 公害! あんたら、もう公害だから!」
◇
掲示板の前を通るとき、御影がふと立ち止まった。御影が、七海の肩に、指先で軽く触れる。
七海の全身が、反射的に飛び上がる。七海は、そんなふうに勝手に反応する自分の身体が、とても嫌だ。
七海「ごめんなさい! 御影くんに触れてもらえるの、嬉しいのに! 嬉しいんだよ?」
御影「糸くず。ついてた」
七海「蓮くん、私、謝ってる」
御影「いや、大丈夫だから。急に触れられたら、こわいよね。ごめんね、驚かせて」
七海「どうしてだろ。私、こわくないのに。私、蓮くんのこと、こわくないよ?」
御影「こわくないなら、じゃあ、どうなの?」
顔を真っ赤にさせる七海。それを見て、しまったと思い、御影も顔を赤くする。
七海「大好き」(小声)
御影「うん」(小声)
潤んだ瞳で、七海が、上目づかいに御影をみる。御影は下を向いて、小声で独り言をはじめる。
御影「滑らかな多様体 M。力学は確率微分方程式 SDE。または分布 p(x,t) の発展——」
七海「どうしたの? 蓮くん?」
御影「自己組織化=開放、散逸系でのアトラクタ・パターン選択として——」
七海「蓮くん? からかってるの?」
御影「そうじゃなくて」
七海「なに?」(プク顔)
御影「な、七海が……かわいくて……耐えられなく……」
下を向いて、顔を真っ赤にするふたり。「はい、はい」「そうだね、そうだね」「うん、うん」と、ふたりの脇を平然と通り過ぎていく生徒たち。
夢咲「まっっった、あんたたちか。ほら、よそでやれ! うせろ!」
七海「夢咲だって……昨日、体育館とこで、長谷川くんと——」
夢咲が、真っ赤な顔を右腕で隠し、走って逃げていく。
◇
女子A「藤咲さん、婚姻届を下敷きにしてるんだって」
女子B「やば、必死すぎ。御影キュン、カッコいいからなー」
女子C「御影キュンのこと、気にならない女子なんて、いないっしょ」
放課後。医学研究会の部室に向かおうと、七海と御影が教室を出たところ。隣のクラスから、そんなヒソヒソ声が聞こえてきた。
御影「気にするな」
七海「気にする。けど、仕方ない。だって、必死だもん」
御影はそれ以上、励ましを重ねない。七海は、それが助かる。無言で歩くふたり。
七海「トイレ」
御影「あ、じゃあ、誰か一緒に行ける女子——」
七海「大丈夫。いま、トイレの中、人多いみたいだから。女子の声するもん」
御影「外で、待ってる」
トイレに入る直前、七海は振り返って小さく手を振る。御影はわずかに顎を引いただけ。けれど、その無言の合図が、七海の胸を満たす。
——好き。大好き
女子D「いますれ違ったの、藤咲さんだよね? キレイすぎでしょ」
女子E「そそ。みんなの憧れ、七海さん。あんな美人、他にいないよ」
女子F「いいなー、私も、ああ生まれたかったなー」
七海と入れ違いでトイレから出てくる女子生徒たち。トイレ前、反対側の壁に、腕組みをして、御影が寄りかかっている。顔は横を向いていて、目線は合わない。
目線が合わない安心から、御影のことをジロジロと観察する女子生徒たち。観察しているのがバレないよう、どうでもいい立ち話をしてカムフラージュする。
カッコいいを超えて、美しい。見惚れ、無駄話が続けられなくなる女子生徒たち。
七海がトイレから出てきた。なんだか恥ずかしい気持ちになる七海。下を向いて
七海「お待たせ……しました」
御影「おそい」
七海「え、そんな? 数分だったでしょ?」
御影「七海がいない時間、つらい」
七海「あ、うん」(赤くなる)
御影「いこ」
手をつないで、その場を去っていくふたり。しばらくして
女子D「あれ……さ」
女子E「うん……」
女子F「トイレに……嫉妬してたよね……」
これで、第55話までお読みいただいたことになります。本当に、嬉しいです。ありがとうございます。
少しでも、読めるところがあったなら、是非とも☆評価をお願いしたいです。執筆の励みになると同時に、明日もまた頑張っていこうという気持ちになります。
さて。
七海と蓮の、暖かい日常パート2です。甘々シーン、もう少し見たくなりまして。
引き続き、よろしくお願い致します。




