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第51話 私たち、いま、オランダにいます

 御影(みかげ)が、御影母に、御影父の連絡先を聞こうと、切り出していた。


 ちょうどそのとき。


 論文を読んだ父親の方から、御影にメールが来た。「論文、素晴らしかった。会いたい」と。御影は、「嬉しい。妻を連れていく」と、短く返信をした。


 なん往復かの、メールでのやり取り。


 そうして日程調整を終えると、メールで、KLMオランダ航空のチケットが送られてきた。ファーストクラスだった。


——ふたりきりで、初めての旅行。しかも海外旅行、ファーストクラス。これ、新婚旅行だ!


 七海(ななみ)にとって、初めてのパスポート、飛行機、外国。約12時間のフライトも、空の上の景色に興奮しているうちに、終わった。七海と御影は、そうして、オランダ、スキポール空港に立っている。


 オランダの入国審査を終える。空港の出口では、立派なスーツを着た紳士が、「ようこそ、七海さん、蓮さん!」と日本語で書かれたプラカードを持って、待っていた。そして、紳士に導かれ、空港前から、大型リムジンに乗せられる。


七海「もしかして……お父様って、お金持ち?」


御影「一応、『Van Egmond (ファン・エグモンド)家』は、旧オランダ貴族だって聞いてる」


七海「えええー、貴族!」


 オランダの長閑(のどか)な風景が、車窓を満たしていく。牛。水路。古いレンガの建物。水路。水路。風車。七海は、絵葉書の中にいるような気分になる。


御影「昔は、だよ? 今は、法的な特権のない、名前だけの貴族」


七海「そういうの、もっと早く、教えてよ!」


御影「ごめん。じゃあ……家は、ゲーテの『エグモント』、ベートーヴェンの『エグモント序曲』の主人公をご先祖とする家……みたいです」


七海「ゲーテ! ベートーヴェン! 貴族!」



 古城。そこが、御影父の自宅。


 お城なんて、はじめての七海。オタオタしていると、女中さんらしき人に更衣室に連れて行かれ、サイズのあっていないドレスに着せ替えられた。雑な感じがするが、なんだか気楽だ。


 ちょっとルーズ、肩肘の力が抜けた、オランダ文化。

 

 着替えを終えた七海と御影は、そうして、御影父のオフィスに通される。


——ああ、蓮くんのお父さんだ。似てる


 御影父は、ゆっくりとした英語で、とても優しく話しかけてくれた。御影父の声も、大好きな御影の声に、よく似ている。


御影父「Peter van Egmond です。七海さん、蓮のこと、選んでくれてありがとうございます……なんて、お美しい。七海さん、あなたは、美しい」


七海「ありがとうございます。こちらこそ、蓮くんに選んでいただき、光栄です」


 たどたどしい、七海の英語。受験英語なら得意な七海だが、やはり本場の英会話には、慣れていない。


御影父「息子よ。会いに来てくれて、ありがとう。しかも、こんなに美しい奥様にまで会わせてもらえて、私は、幸せだ。そして君の論文、ほんとうに、素晴らしかった。誇らしいと思った」


御影「父上、もったいないお言葉。ありがとうございます。母上も、元気にしております。その……『よろしく』との伝言を預かっております」


 御影の横に立っている七海。御影の耳元に、小声で


七海「なんか、堅苦しいね。蓮くん」(日本語)


 御影父が、それに気づく。


御影父「何か、不審なことがございますか?」


御影「いや、妻が『堅苦しい』と」


七海「ちょっと」(日本語)


 御影父。いきなり、顔がパッと明るくなる。声のトーンが高くなり、軽やかな話ぶりに変わる。


御影父「おっしゃる通り、七海さん。オランダは、本当は、堅苦しいのを嫌がる文化なんだ」


七海「そうなんですか?」


御影父「だって、イギリス、フランス、ドイツっていう、堅苦しい連中に囲まれた国なんだよ? オランダってさ」


七海「はあ」


御影父「ちゃんと、七海さんとも、René とも、話がしたい。René の祖父母も、今回のこと、すごく、楽しみにしてる」


御影「そ、そうなんですね」


御影父「今回のこと、家族のみんなが喜んでる」


御影「そうだと、僕も、嬉しいです」


 少しの間。


御影父「René。お母さんのこと、ごめんなさい。苦労を、かけたね。お父さんは、お母さんと上手くやれなかった。その謝罪を、こうして今、させてもらえること……なんて嬉しいことだろう。そもそも、René が、あんなに素晴らしい論文を書けたのは、ずっと、お母さんに支えられてきたからなんだろ?」


御影「うん。お母さんに感謝してる。お母さんのこと、愛してる」


七海「蓮キュン、私のことは?」(日本語)


御影「いま、それやるか? 愛してるって」(日本語)


七海「私、嫉妬してる。ちゃんと言って」(日本語)


御影「七海、愛してる」(日本語)


七海「許す」(日本語)


 夫婦のフランクなやり取りを、幸せそうに、御影父が見ている。日本語がわからなくても、ふたりの良い関係が伝わってくる。


御影父「お母さんに、お礼を伝えて欲しい。なんて素晴らしい日だろう! 神よ、あなたのこと、あんまり信じてないけど、今日だけは、感謝します!」


 七海が笑う。それだけで、部屋の空気が暖かくなる。それを胸いっぱいに感じ取って、


御影父「なんて素晴らしい奥様だろう……」


 御影父と、色々と話をする七海と御影。そもそもオランダには、事実婚とか、そういう『先進的なこと』にオープンな文化があるとのこと。


 前例主義の真逆。主義を、自分で自由に構築できる土壌がある国。自分主義の国。それがオランダだと、七海は聞かされた。


御影「俺は、5歳のときに、七海にプロポーズしたんだ。さすがに、早いよね」


御影父「オランダでは、それ、あんまり、驚かれないかもね」


御影「そうなの?」


御影父「オランダではさ、『生涯の友は、小学校に入学する前にしかできない』みたいに言われることも多いからね」


御影「へー、そうなんだ」


御影父「だから『保育園のクラスメートが、いまの妻』、みたいなこと、誰も驚かない。普通。5歳のときから事実婚なんて、オランダでは、それこそ『へー』くらいの印象」


——オランダ語じゃなくて、ずっと英語で話してくれてる。優しい人たち


七海「そうなんですね。日本では、事実婚ってだけで、珍しいって思われます」


御影父「いい大人でも、僕みたいに、失敗することも多い。5歳の結婚だから失敗するなんて、僕にはとても言えない。そういうの、本人たちの問題でしょ? 世間なんて、知ったことか。自分で決めるんだっていうのが、オランダ流かな」


——自分の学ぶべきことは、自分で決める


七海「蓮くんのことみてると、そういうの、わかります。自分がどうしたいか、自分がどうするか。それを、自分以外の、誰にも決めさせないっていう覚悟があるんです」


御影父「そういう大事なことは、神にも、決めさせない。自分で決めるっていうのが、特に、北部オランダには根付いている。プロテスタントの精神だね」


七海「そうなんですね」


御影父「押し付けがましいけど、René のルーツについて、もっと知ってもらいたい。René という人間の中には、オランダが半分ある。それをわかってあげられるのは、七海さん、君だけなんだ」


七海「……」


御影父「ちゃんと伝えたい。René は、僕のこと、ずっと嫌いでも構わない。でも僕は、René に幸せになってもらいたい。その鍵は、七海さん、君にあることは明白だろ?」


七海「多分、そうです」


御影父「René が、たとえ、僕からの愛を拒否するとしても。僕は、René のこと、愛してるんだ」


七海「蓮くんは、自分に向けられるお父様からの愛を拒否して、逃げるなんてこと、ない……です」


御影「お父さん。まだ、俺の中には、お父さんのこと許せないって感情がある。でも、きっと……俺は、お父さんのこと、ずっと、大事に思ってたんだと思う」


御影父「ありがとう」


——ああ、オランダにきて、良かった。全部、楽しい


七海「おふたり、オランダ語で話してもらっていいですよ。私、翻訳ソフト使いますから。私も、ずっと英語だと疲れるので、みんなで、翻訳ソフト、使いましょう!」


御影父「Doen we zo. Zo’n vertaalapp is superhandig, toch? Daarmee kunnen zelfs ouders die niet zo goed Engels spreken, lekker veel met Nanami-san kletsen.」


翻訳ソフト「そうしよう。翻訳ソフト、便利だよね。これがあれば、英語が苦手な親(御影の祖父母)も、七海さんとたくさんお話しできる」



 家族や友人を招いた盛大なパーティ。御影の祖父母の家でも、またパーティ。みんなと、連絡先を教え合い、スマホでつながった。「日本に戻っても、連絡ちょうだいね」と。


 やっと、ふたりきりになれた七海と御影。新婚旅行の感じが、リアリティを持つ。非日常、特別な感じが、ふたりを近づける。七海の肩を抱く御影。


 七海は、心の中で「そういえば、非日常が関係性に良い効果をもたらすっていう論文(※1)、読んだな」と思い出しながら、頬に、少し熱を感じる。


——私たち、ほんとうの夫婦なんだ。お父さん、私たち、結婚したんだよ


 天気に恵まれた、北部オランダの小さな町を、七海と御影は、身体を寄せ合いながら、ゆっくり歩いている。暖かい。


 レンガの家が並び、三角屋根が空に向かっている。道のわきには、また運河。白い橋がゆっくり下り、クラシックカーが通る。その後を、たくさんの自転車が、通りすぎていく。


 夕方になると、土産(みやげ)屋以外のお店の多くは閉まる。「お店で働く人も、家族で夕食を取るべきだから、遅い時間までお店が開いていないのは当然」という、オランダの考え方なのだという。


 カフェだけが活気に満ちた明かりを出し、そこから暖かい湯気のにおいがする。


 ふたりは慣れない石畳に足を取られながら、豊かな水の音を聞いている。


 窓には花の鉢。


 犬を連れた人が「Hoi, lekker weertje hè!」と、あいさつをくれる。御影はそれに「Ja, gelukkig wel. Lekker van genieten, hè?」と軽やかに返す。


 七海は、ただ笑顔で会釈しつつ、オランダ語の抑揚(よくよう)の強い響きが好きになっていく。言葉がわからなくても、お互いの幸福を願う。それが、あいさつの意味なんだと、七海は気づく。


 オランダは、他人との距離がとても近い国だった。知らない人からたくさん話しかけられる。差別は、感じない。日本のピリピリした感覚とは、まるで違う。


——ああ、こういうの、好きだな。いつか、オランダ語、勉強してみたい


 路地を曲がると、小さな広場。古い教会の時計が、重たそうな鐘の音で、時を知らせている。


 運河の先には牧草地。遠くに、白黒の牛。


 七海は地図アプリを見ながら、次に行く道を指さす。御影はうなずきつつ、「その前に」と、橋の上でスマホを持った腕を伸ばし、ふたり肩を並べた写真を1枚、撮影した。


 風は少し冷たいが、光はやわらかい。


七海「蓮くん、私にもその写真、送って」


 七海は、御影からもらったその写真を、すぐに医学研究会のグループチャットに貼り付けた。


七海「私たち、いま、オランダにいます」

ここで、第51話までお読みいただけたことになります。本当に、嬉しいです。ありがとうございます。


少しでも、読めるところがあったなら、是非とも☆評価をお願いしたいです。執筆の励みになると同時に、明日もまた頑張っていこうという気持ちになります。


さて。


僕の場合、初めて飛行機に乗って、外国に行ったのは、就職してからでした。出張でしたが、とても感動しました。そして、外国には、日本とは異なる価値観が、普通にあることを知りました。普通とは何か。意外と、ゆるい概念なのです。


引き続き、よろしくお願い致します。


参考文献;

1. Tsapelas, I., Aron, A., & Orbuch, T. (2009). Marital boredom now predicts less satisfaction 9 years later. Psychological Science, 20(5), 543–545.

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