第5話 朝の教室と距離
繰り返し実証されており、査読のあるトップジャーナルに掲載された研究によれば、恋愛が人間を成長させる(参考文献は第1話の後書きに掲載)。
この物語は、ある初恋のはじまりと、その当事者たちの成長に関する、私の研究成果をまとめたものである。
つきまして、浅学非才の身ながら、みなさまによる査読をお願いしたく、ご連絡差し上げた次第である。
教室。朝のホームルームまでは、まだ時間がある。
窓の外には、うすい雲。
登校してきた七海はいつもの席に座り、静かにしている。
後ろには、七海よりも先に来てた御影 蓮が座っている。見慣れた北高の制服、黒縁メガネ。
七海は勇気を出して、振り向いた。
御影の目の色は、黒かった。昨日の夕方に見た、薄い青ではない。
——彼が、目の色を、黒のカラコンで隠していることは、秘密。
七海「……昨日は、ありがとう」
声は小さい。けれど、はっきり。
御影「いいって。気にしないで」
御影の声は静かで平ら。七海の肩の力が、すこし抜ける。
その様子を、楢崎 夢咲と矢入 美月が見ていた。
夢咲と美月が、七海のところにやってくる。補習がなければ、商店街を抜けるまで、七海の両側を"護衛"して歩くふたりだ。
夢咲「なになに?」
美月「ちょっとあんた、うちらの七海になんかした?」
御影は黙っている。メガネの位置を指で直し、ノートを開いただけだ。七海はすぐに言った。
七海「やめて。御影くんは、助けてくれたの」
昨日あったことを、ふたりに説明する七海。
夢咲は眉を下げ、「そっか」と少しだけ声をやわらげる。美月は七海のリボンを指で整えながら、「それなら良い。あたしらからも、ありがとう」と言った。
そして、ふたりは「ここぞ」とばかりに、御影に話しかける。
夢咲「あんた、御影くん? あんたも赤点あるんだから、補習あるよ? 昨日はサボって、帰ったの? まあ、それで七海が助かったわけだけど」
美月「きみ、なんで教科別だと学年トップなのに、国語と社会は赤点なの?」
七海は小さく肩をすくめる。
御影に迷惑をかけてしまった罪の意識もある。ただ、ふたりの質問には、七海にも関心がある。
御影は視線を上げず、しばらく黙って聞いていた。教室には、ホームルーム前のざわざわが始まっている。
少しだけ間を置き、御影は、顔を上げた。
御影「……関わらないで、大丈夫だから」
嫌な感じはしなかった。優しくて、まっすぐだった。
夢咲が言葉を飲み込む。美月は、感情を共有しようと、七海に視線を送る。七海は、また、胸の奥が少しきゅっとなるのを感じた。
——御影くんの目の色が青いことは、内緒。
昨日の夕方にみた、薄い青が頭に浮かぶ。あんな色をした目は、見たことがない。七海は、夢咲とに向けて小さく首を振った。
御影「大丈夫。 本当に、気にしてない」
それだけ言って、御影は、またノートに視線を落とした。
黒いレンズの向こうにある目の色は、やはり黒い。何事もなかったみたいに、プリントの角を揃える。その大きな手は、静かだ。
夢咲「御影くん、了解。ちゃんと距離、保つ」
美月「御影くん。とにかく、ありがとね」
夢咲と美月は、七海の肩に軽く触れて、自分たちの席に戻っていく。
御影のほうを振り向いていた七海は、ほんの一瞬だけ迷ってから、前を向いた。
ペンケースの中には、御影に渡せていない付箋、『以前、どこかでお会いしましたか?』がある。指先で、その付箋の角をなぞり、指を離す。
担任「席につけー」
椅子が一斉に鳴り、教室の空気が締まった。七海の手は少し冷たいけれど、胸の奥は、昨日より少しだけ温かい。
生徒A「起立ー、礼ー」
七海は礼をしながら、目だけで窓のほうを見た。みんなには黒く見えている御影の目は、本当は、透き通った水に、空の色を一滴たらしたみたいな、薄い青。
——もっと、御影くんのこと、知りたい。