第43話 指輪より大事なもの
バレンタインデーの2日前、1時間目と2時間目の間、休み時間のこと。
七海は、次の授業で使う資料集を、鞄から出そうとしていた。
そして七海は、自分の左手薬指に、結婚指輪がないことに気づく。
御影との事実婚を示す、あの、水に、空の青を一滴垂らしたような薄青色をした指輪が——ない。
七海はポーチを開け、机の中をまさぐり、胸ポケットなど、あらゆる収納を素早く点検した。さらにロッカー、掃除用具入れ、果てはゴミ箱の中まで探し始める。
——ない。指輪、ない。いつ、落とした?
夢咲と美月が、すぐに、必死でオタオタしている七海に気づく。
美月「七海、どうしたの? ねえ、ちょっと?」
夢咲「おい、七海、聞いてんの? おーい」
御影も、七海の異変に気づく。
御影「七海、どうした?」
——言えない! 無くしたなんて、言えない!
みるみる青ざめる七海の顔。観察力の鋭い美月が、気づく。七海の左手薬指に、「あるべきもの」がない。
美月「あんた……」
七海「言わないで! 美月、ダメ!」
——美月だもん、気づくよね
御影「美月、教えて」
七海「ダメだって、美月、ダメ!」
美月は、何も言わずに、床を調べ始める。遅れて夢咲も気づき、深刻な表情で、廊下の方に走っていく。
御影「七海、なにかあったんだろ? 失敗は、むしろ、関係性を深めるきっかけ。そう、一緒に決めた」
七海「……」
御影「俺は、七海の口から聞きたい。話してもらえないの、信頼されてないって、悲しい気持ちになる」
七海は、泣き出しそうになるのを、なんとか抑えている。顔は真っ青だ。
——泣いてる場合じゃない
七海「……ないの」
御影「うん」
七海「指輪」
御影は、一拍だけ間を置いた。意識した、優しいトーンで
御影「大丈夫。まずは、夢咲と美月にお願いして、一緒に探してもらおう」
七海「ごめんなさい……」
夢咲、美月、御影は、それぞれ、「落とし物として用務員室に届いていないか」、「クラスメートがみつけていないか」、「七海自身に記憶はないか」、残り短い休み時間の中、手分けして確認を開始した。
青い顔をして、震え出す七海。
——どうしよう、どうしよう、どうしよう
御影「夢咲、美月。俺、次の授業サボる。体調不良で、保健室に行ってることにして」
夢咲「あたしらもサボる」
御影「やりすぎ。それだと、七海が返って申し訳ない気持ちになって、暴走する」
美月「私たちは、じゃあ、とにかく『落とした可能性のある場所』について推理して、リストにしておく」
夢咲「七海、今朝の通学路、地図アプリに書き込んでスクショ、で、私らんとこ送って」
2時間目が始まる、チャイム。
教員が教室に入ってくる。教室の後ろの扉から、御影がこっそりと出ていく。御影は、その足で、図書室に向かう。
夢咲と美月は、机の下でスマホに指を走らせ、メッセを繰り返している。七海は、放心状態。
——最近、指輪、ゆるくなってたから
七海は、少し痩せた。そのせいだろうか。指と指輪の間に、少しスキマができるようになっていた。結果として、指輪は、はめやすく、外しやすくなっていた。外しやすい指輪は、落としやすい。
図書室。
今は、授業中のため、図書委員もいない。
御影一人が、端末の前に座って、キーボードを叩いている。御影は、何やら気づいては、端末画面を、スマホで撮影している。せわしなく動く、御影の手。
2時間目の終わりを告げるチャイム。
このチャイム音は、七海と御影が、事実婚をした記憶と結びついている。七海は、その幸せな記憶と、今の気持ちのギャップを感じながら、目に涙をためている。
——泣いてる場合じゃない!
教員が教室から出ていくのを確認し、御影が、教室に戻ってくる。
夢咲「今朝、自宅を出る時には、指輪があったって。だから、通学路と学校が、探索のターゲット」
美月「いま、『確認すべき場所のリスト』、みんなのメッセに送った」
夢咲「昼休み、駅前の交番に、私と七海で走って行ってくる。七海も行くよ」
御影「おっけ。さすが、いい仕事だ。網羅的で、抜け漏れがない」
七海「ごめんなさい、迷惑かけて」
美月「困ったときは、お互い様でしょ。気にしないの」
御影が、2時間目をサボっていた理由。「結婚指輪とはなにか」、それを調べていた。
御影「大事なのは七海の気持ち。こうじゃないかな、というの、まず俺に推測させてほしい」
夢咲、美月、七海が、御影の薄青い目を見る。
御影「七海は、きっと『大切にすべきものを、大切にできなくて申し訳ない』『こんな失敗をしてしまい、みんなに迷惑かけて申し訳ない』と感じてる。『ごめんなさい』って思ってる」
七海「……はい」
御影「ポイントは、『申し訳ない』『ごめんなさい』だ。もちろん、指輪をなくしたのは残念だ。でもそれ以上に、俺、夢咲、美月のことを考えてる」
七海「……そうです」
御影「結婚指輪って、いったい、なんだ?」
七海「見ているだけで、幸せな気持ちになるもの……です。私にとっては」
御影「俺たち『らしくない』答えだ。さっき、図書室の端末で、結婚指輪について、調べてきた」
こんな気持ちのとき、さら「らしくない」と言われ、しおれる七海。同時に、なにか答えを持っている御影が、頼もしく感じられる。
御影「結婚指輪の意味。まずそれは『関係の可視化』だ(※1)。左手薬指の指輪は、俺たちが事実婚の関係にあることを可視化する。目にみえない事実婚を、その象徴として形にしたもの。それが結婚指輪だ。目にみえないことは、信じるしかない。でも、形になってる指輪なら、目にみえる。自分が事実婚をしていると、実感できる。それが、結婚指輪の意味の一つ目の意味」
七海「いまだに、私が蓮くんと結婚してるって、夢みたいで、信じられない。でも、指輪を見ると、『そうだった、私、結婚してた』って、嬉しい気持ちになる。それが『関係性の可視化』」
御影「結婚指輪の意味。次は『約束の可視化』だ(※2)。七海は、俺がこの指輪を左手薬指にしているのをみて、きっと、嬉しいと感じてくれてる。それは、俺が『七海とずっと一緒にいる約束』をしていることを、周囲に対して発信しているからだ」
夢咲「わかるような、わからんような」
御影「大胆にいうと、『俺は、結婚してるからな。寄ってくるなよ。女は、まにあってる。告白、お断り』っていう信号を、周囲の女性に対して伝えてる。七海から見たら、俺のこの態度は、安心の理由になる」
美月「わかりやすい」
御影「この二つが、結婚指輪の重要な意味だ。高い安い、デザインの良し悪しは、あまり重要じゃない。むしろ、高価な結婚指輪をしている人ほど、離婚しやすいって論文(※3)もあるくらいだ」
夢咲「なんか、わかるわー」
御影「結婚指輪とは、その所有者に対して、幸福の実感と安心を与える『モノ』であり、その『モノ自体』は、あまり重要じゃないってこと。それが、論文を調べてみた俺の結論」
みんな、考えている。七海の、これまでのこわばった表情が、少し緩くなった。
御影「七海。結婚指輪の持っている意味を前提としたとき、七海はこれからどうすべきだと思う?」
七海は、少し考えてから、慎重に言葉を運んだ。
七海「まず、蓮くんに誠実な謝罪をすべき。『約束の可視化』が失われ、蓮くんを不安にさせてしまうことへの謝罪」
御影「受け取った。俺は、怒ってるんじゃない。指輪をしていない七海は、校内では、俺と別れたみたいにみえる。で、誰かから告られるんじゃないかって、不安になってる。早く、この不安を解消してもらいたい。それが、俺の気持ち」
七海「そして、心からの感謝と謝罪。『関係性の可視化』を失った私のことを心配してくれるみんな。そんなみんなの存在に、感謝しないと。そして心配させてごめんって、謝罪しないと」
夢咲「伝わってるよ」
美月「わかってるよ。気にしないで」
御影「謝罪と感謝は、みんなわかった。で、どうする?」
七海「蓮くんを不安にさせる時間を短くすべき。だから……モヤモヤするけど、すぐにでも、私の左手薬指に指輪をはめるべき」
夢咲「試してみっか。私のこの指輪、シンプルだから、左手薬指につければ、それなりに見えるはず」
サイズは、七海には少し大きかった。いま、七海の左手薬指には、夢咲の指輪がある。
夢咲「どう? 蓮」
御影「嬉しい。七海が、すぐに指輪をしてくれたことが、嬉しい。人間って、面倒だな」
美月「七海。モヤモヤするだろうけど。蓮のために、さっさと、同じ指輪、買うのはどうかな? 買ってからさ、なくしちゃったほうの指輪も探せばいいと思う」
七海「蓮くんのため……」
すぐに、電話をする御影。結婚指輪を買ったアクセサリーショップに問い合わせている。指輪の特徴を述べ、同じものがあるか聞いている。
御影「在庫、あるって。サイズは、行ってみないとわかんない。昼休み、駅前の交番じゃなくて、ショップに行って、同じ指輪を買おう。時間あれば、帰りに交番もよる」
夢咲「とりあえず、私だけで交番行ってみるよ。薄い青色をした指輪、届いてないかって聞くだけ聞いてみる」
七海「みんな、ありがとう。気持ち、落ち着いてきた」
昼休み。
七海と御影は、大急ぎで教室を出て行った。夢咲は交番へ、美月は校内を調べる。
ショップには、落とした指輪と同じデザインの指輪があった。今の七海の指のサイズに、ぴったりの指輪もあった。「また、なくしたときのショックが大きいから」と、指輪にネームを入れるのはやめておいた。
七海と御影は、5時間目の開始に間に合わなかった。
担任から、職員室に呼び出される七海と御影。理由を問われ、ふたりは、正直に話した。
担任「それじゃあ、仕方ないな。指輪、みつかるといいな。先生も、落とし物として届いてないか、気にしておくからさ。もう、教室もどれ」
◇
バレンタインの日。
甘える七海と、ツンデレる御影。チョコのやりとりもした。
七海と御影は、放課後、交番に立ち寄ってみた。すると、なくした指輪が届けられていた。七海は、夢咲と美月に、急いでメッセする。「指輪、見つかった!」「協力してくれて、ありがとう!」
みんなが、自分のことのように、喜んでくれた。
——自分が失敗したことは、いやだ。でも、なんか、嬉しい
七海は、新たに購入した、ネームのないほうの指輪を、日常的にはめることにした。サイズが合っているので、落とす可能性が低い。それに色々考えて、結婚指輪に、本物も偽物もないと確信できたから。
こうして、七海の薄青い結婚指輪は、2つになった。七海はこれらを、両手で自分の目のところに当てて「蓮くんの目ー」と、よく遊ぶようになった。
御影は、それをみせられるたびに、少しイラッとする。
お忙しい中、第43話までお読みいただけたこと、本当に嬉しいです。ありがとうございます。
少しでも、読めるところがあったなら、是非とも☆評価をお願いしたいです。執筆の励みになると同時に、明日もまた頑張っていこうという気持ちになります。
さて。
結婚指輪の意味について、意外とたくさんの研究があります。このルーツは、古代エジプトで「永遠」を意味した「円」だと考えられています。同時のエジプトでは、すでに指輪が婚姻の印とされていたそうです。そして古代ローマでは、左手薬指から心臓への道筋が「愛の静脈」と信じられていました。そこに「永遠」を付与したのが、結婚指輪です。永遠の愛。すてきです。
引き続き、よろしくお願い致します。
参考文献;
1. oma, C. L., & Choi, M. (2015). The Couple Who Facebooks Together, Stays Together: Facebook Self-Presentation and Relationship Longevity Among College-Aged Dating Couples. Cyberpsychology, Behavior, and Social Networking, 18(7), 367–372.
2. Ito, K., Yang, S., & Li, L. M. W. (2021). Changing Facebook profile pictures to dyadic photos: Positive association with romantic partners’ relationship satisfaction via perceived partner commitment. Computers in Human Behavior, 120, 106748.
3. Francis-Tan, A., & Mialon, H. M. (2015). “A Diamond Is Forever” and Other Fairy Tales: The Relationship Between Wedding Expenses and Marriage Duration. Economic Inquiry, 53(4), 1919–1930.




