第41話 はじめての大喧嘩
2月の夕方は早い。北風が校庭の砂を吹きあげ、空はもう薄暗い。
北高の西門で、七海は息を白くしながらスマホの時計を見る。「18:01」。保育園の延長はアプリで申請済み。10分までは、平気。——「18:12」。指先が冷えている。
御影が走ってきた。「18:21」。肩で息をしながらも、言葉は整っている。
御影「ごめん、遅れた。数学の先生と議論してて——」
七海「連絡、できたよね」
平たい声。
御影「通知音、切ってた。議論に集中してたら……見落とした」
説明は正しい。でも、校門の影で待っていた21分の「重さ」は消えない。七海は短く言う。
七海「行こ」
2人は小走りで保育園へ向かい、延長保育の部屋で美香を引き取った。いつもなら、スーパーに立ち寄るところ、今日は、行かない。そう七海が決めた。
3人は、冷えた商店街を歩いていく。バレンタインのチョコレート売り場だけが、賑やか。七海は、バレンタイン、どうするかを話したかった。でも、今は、そんな気分になれない。
——どうして連絡くれなかったの?
唇が動きかけ、飲み込む。今は言わない。
自宅に戻ると、部屋が冷えていた。七海母は、仕事で、まだ帰っていない。「先に食べて寝てて」とメッセがあった。
七海が鍋に湯を沸かし、冷凍庫のうどん玉をほぐす。御影が昨日の残りの惣菜を皿に盛り付け、テーブルに置く。さらに御影は器を並べていく。美香は、全員分のお箸を準備している。
食卓。うどんの入ったお椀で、指先が温まる。先に口を開いたのは七海だった。
七海「謝って欲しい」
御影「はじめに、『ごめん』って、謝ってる」
沈黙。美香がオロオロし始めた。
七海「謝罪って、なんのためにするの?」
御影「……相手の気持ちを、鎮めること。ごめん。遅れる連絡できたのに、しなかった」
七海「違う。それ、違う。西門で待ってた、私の気持ち、想像してみて」
また沈黙。
美香は、お腹を空かせている。なのに、うどんに手をつけず、下を向いている。なんだか、自分が怒られている気がするから。
七海「御影くんは、私のこと忘れて、置いていったりしない。だから、私を待たせても、保育園の延長料金を支払っても仕方ない事情があるって思うよね。当然、事故や事件に巻き込まれたって想像する。怒ってたんじゃなくて、『なにかあったんだ!』って、こわくなってた」
御影「……うん」
七海「あなたが大切なの。私にとっては、自分の命よりも大切なの。そんな大切な人を失ったかもしれないって気持ち、わかる?」
御影「……」
七海「『ごめん、遅れた』じゃなくて、『ごめん、心配かけて』だったら、こんなに胸、痛くならない」
御影「うん」
七海「わかってる。たった20分待たせただけで、こんな風になる私が『重たい』んだって」
御影「重たくない」
七海「でも、いくら重たくても、私は、連絡なしで待たせちゃいけない人なの。私だって、自分がそんななの、嫌だよ。面倒な奴だって、思うよ。でも、どうしようもないじゃない」
泣き出す七海。無言で七海を抱きしめる御影。
美香が、うどんを食べ始める。ちょうど良い温度に冷めていて、食べやすい。そして、食べ終わる。
美香「うどん、冷めちゃってるよ。美香は、冷めてるほうが好きだけど」
◇
次の日の夜。
御影が、複数の論文を手に、わかったことを共有したいという。
七海「なに」
御影「まず。昨日は、ごめん。遅れたことじゃない。七海の気持ちを想像するっていう、大事なステップを踏まなかった。俺にとって、七海は、自分の命よりも大切。なのに、七海の気持ちを理解したいっていう欲求が、足りなかった」
七海「その欲求が足りないってところが、悲しいの。だって、欲求って、その人の本音のことでしょ? お腹いっぱいの人が、食欲を持ちたいって思っても、無理でしょ?」
御影「うん。だから、本音を育てないといけないことに気づいた」
七海「本音を、育てる?」
御影「自然まかせに、しない。運命のせいにしない。そういう欲求を、自分の力で、意識的に育てる」
七海「そんなこと、できるの?」
御影「俺は、七海を悲しませたくない。七海が泣いているのを、みたくない。これは間違いなく本音で、欲求だ」
七海「うん」
御影「でも、ずっと一緒にいるから……きっとまた、七海を悲しませることもあると思う」
七海「できるだけ、少なくして欲しいけど。そうだよね、ゼロにはできないよね。それに私はきっと、蓮くんのこと、これから何度も、ずっと悲しませるし」
御影「ほら。『蓮くん』って呼んでもらえることが、こんなに嬉しい」
七海「?」
御影「昨日のことは、本当に申し訳なかった。でも、昨日みたいなことがあるから、気づくこともある。七海の声で『蓮くん』って呼んでもらえることが、こんなに幸せなことなのかと。七海が、自分にとって、こんなに大切なんだって」
七海「……」
御影「七海が幸せだと、俺も幸せなんだ。でも、七海が幸せかどうかなんて、表面だけみていてもわからない。強がったり、我慢したり、嘘をついたりするのが人間だから」
七海「うん」
御影「だから、俺が幸せになるためには、七海の気持ちを理解できるようになる必要がある」
七海「必要があるのは、そう。でも、理解したいっていう欲求じゃないでしょ?」
御影「いや、これは欲求なんだ。俺はいま、ほんとうに、七海の気持ちを理解したいって感じてる」
七海「何があったの?」
御影「今回の、この失敗があった。この失敗で痛い思いをしたから、もうこんな痛い思いはしたくないっていう欲求があるのを、はっきりと感じられる」
七海「つまり、今後も、失敗が必要ってこと?」
御影は、少し考えてから、
御影「自転車に乗れなくてもいいと考えている人がいたとする。でも、自転車に乗らなくちゃいけなくなった。仕方なく、自転車に乗る練習を始めた。そして転んだ。なんども転んだ。もう転びたくないって思った。もう転びたくないから、自転車に乗れるようになりたいっていう欲求が育った」
七海「ほんとだ、そうだ」
御影「失敗をむしろ利用することで、俺たちはもっと、お互いのことを大切にできるようになる。大切にしたいっていう欲求を育てることができる」
七海「うん、そうだ。私も、御影くんのことで、なんども失敗した。だから、もっともっと御影くんのこと知らなくちゃって感じた。大切にしたいって気持ちが、育った。そうだ、間違いない」
御影は、かなり慎重に、意識して冗談ぽく、次の発言をした。
御影「合意の問題とかね」
七海は、御影が冗談で言っているとわかっていた。しかし、合意の問題が原因で、七海と御影は、ふたりだけで暮らす許可が得られなかったのだ。七海にとって、この問題は、絶対に克服すべきもので、冗談ではない。
七海「そう。私、勝手に暴走して、蓮くんの気持ちを置き去りにしてた。それで痛い思いをいっぱいした。だから、もっと蓮くんの気持ちを知りたくなった。もっと好きになった」
御影「失敗の痛みが、重要なんだ」
七海「でも、わざと失敗なんかできないよ」
御影「失敗する確率は、意識的に、上げられる」
七海「どういうこと?」
御影「いつも一緒にいれば、喧嘩が起こる確率は上がるよね? 一緒にいないと、そもそも喧嘩にならない。一緒に、いろいろなことにチャレンジしていけばいい」
七海「喧嘩は、関係性を育てるための、貴重なチャンスってことだ」
御影「でも、喧嘩をするのは嫌だよね。だからこそ、喧嘩から早く立ち直る方法が重要になる。喧嘩することの痛みを、少しでも和らげる方法、知りたくない?」
——やるからには、必死であれ
七海「喧嘩は、本気でやる。必死にやる。でも、喧嘩からの仲直りが上手なら、問題ない。むしろお互いの理解が深まり、関係性がよくなる。あ、そのために論文を検索した?」
御影「そう。これから、見つけた論文の話をしたい」
七海「うん」
御影「まず、『第三者の目を入れる』だ(※1)」
七海「私たちが喧嘩になったら、夢咲、美月、カイオくんに入ってもらうのね」
御影「そう。たとえば、昨日のこと。俺は、七海の数学に関して、得意・不得意を分析してた。七海は、その場で考える初見の問題は苦手。だけど、解法をみたことがある問題であれば、正答率が高い」
七海「え……」
御影「そこで、医学部ごとに入試問題の傾向を調べた。初見になりやすい、クセのある問題ばかり出題するところもある。でも、教科書にも載っているような、素直な問題ばかり出題するところもあった」
七海「もしかして……」
御影「その分析結果が正しいか、数学の先生のところに相談しに行った。そしたら先生は、七海には医学部なんて無理って言った。その理由を聞いたら、確かにと納得できるところもあった。そこから、七海のどこを改善すればいいのか、建設的な議論になった。先生も、たくさんアイデアを出してくれた」
七海「それで、待ち合わせに遅れた……」
御影「そう」
七海「そんな……私、また、蓮くんにひどいことした」
御影「違う。七海は悪くない。だって、この話、嘘かもしれないだろ? 都合よく、言い訳したいだけかもしれない」
七海「蓮くんは、そんな嘘つかない」
御影「ありがとう。今なら、そう思えるよね。だけど、あのとき、七海が本気で俺のことを心配してくれていたあのとき。あのときに、この話を聞いたら、どうだった?」
七海「……」
御影「感情を伝えるのは、とても大切なこと。でも、感情がそこにあるときは、相手の話を聞く余裕がない」
七海「だから、早めに第三者の目を入れる」
御影「信頼できる、第三者ね。嘘の証言をしないって、俺たちが信じられる人じゃないと」
——やるからには、必死であれ
七海「夢咲、美月、カイオくんと、お互いに取り決めておいたほうが良さそう」
御影「そうだね。美月さんとカイオが喧嘩したときは、俺たちが間に入るべきだね」
七海「うん、そうしよう。他には、どんなことがあるの?」
御影「睡眠不足は、最悪の燃料(※2)」
七海「昨日の私だよ……嫌になる……」
御影「感情が込み上げてきたら、5秒以上待ってから発言する(※3)」
七海「カーッとなる時間って、意外と短いっていうしね。他には?」
御影「あとは、ちゃんと聞くとか、誠実な謝罪とか、普段から感謝するとか、わざわざ論文に学ばなくてもいいことが多かったかな。もうちょっと時間かけて、他にも、探してみる」
七海「私、きっとできる。なんだか、次に喧嘩するのが楽しみになってきたよ!」
御影「おいおい」
◇
今日の自分なら大丈夫だと、七海母に、何やら直談判する七海。七海母は、御影母にメッセする。御影母からも、許可が降りた。
パジャマ姿で枕を抱え、顔を真っ赤にした七海。
七海「今晩は、一緒に寝ていいって……何もしないよ! 何もしない! あの、キスまではOKとのことですので……よろしくお願いします……」
第41話まで、お読みいただきました。ありがとうございます。本当に、嬉しいです。
少しでも、読めるところがあったなら、是非とも☆評価をお願いしたいです。執筆の励みになると同時に、明日もまた頑張っていこうという気持ちになります。
さて。
喧嘩には、自己開示としての意味があります。だから喧嘩は、カップルがお互いの理解を深めるためにも、とても重要なイベントなのです。問題は、喧嘩の結果として、関係性が悪化してしまう可能性がある点です。だからこそ、喧嘩をしたら、喧嘩の原因ではなく、仲直りすることにフォーカスする必要があります。
引き続き、よろしくお願い致します。
参考文献;
1. Finkel, E. J., Slotter, E. B., Luchies, L. B., Walton, G. M., & Gross, J. J. (2013). A brief intervention to promote conflict reappraisal preserves marital quality over time. Psychological Science, 24(8), 1595–1601.
2. Wilson, S. J., Jaremka, L. M., Fagundes, C. P., et al. (2017). Shortened sleep fuels inflammatory responses to marital conflict: Emotion regulation matters. Psychoneuroendocrinology, 79, 74–83.
3. McCurry, A. G., May, R. C., & Donaldson, D. I. (2024). Both partners’ negative emotion drives aggression during couples’ conflict. Communications Psychology, 2, 122.




