第4話 商店街の夕方と青い目
繰り返し実証されており、査読のあるトップジャーナルに掲載された研究によれば、恋愛が人間を成長させる(参考文献は第1話の後書きに掲載)。
この物語は、ある初恋のはじまりと、その当事者たちの成長に関する、私の研究成果をまとめたものである。
つきまして、浅学非才の身ながら、みなさまによる査読をお願いしたく、ご連絡差し上げた次第である。
放課後。今日は、実力テストで赤点を取った生徒たちにとって、「補習のある日」である。
赤点の楢崎 夢咲と矢入 美月は、まだ教室でグダグダしている。
ふたりは、いつもなら、学校から商店街が終わるところまで、藤咲 七海と一緒に帰る。
仲が良いから、でもある。けれど、七海に声をかけてくる"チャラい男たち"から七海を守る意味もある。
けれど今日は、七海ひとりの下校になってしまう。補習のせいだ。
七海は、急いでいた。
妹の、保育園のお迎えの時間がせまっている。時間に遅れれば、延長料金を支払わなければならない。家計に余裕がないので、延長料金は、払いたくない。
北高から保育園までは、商店街を抜けてからも、少し距離がある。寄り道はできない。
七海は、すぐにでも、学校を出たい。ペンケースと水筒をしまい、鞄のジッパーを確かめて、七海は、廊下を小走りに進んでいく。
夢咲「七海、大丈夫かな?」
美月「バカの夢咲はともかく、平均よりも上の私まで赤点があるって、北高のテスト、どんだけ難しいんだよ」
商店街は、夕方のにぎわい。焼き鳥屋の煙、たこ焼きのソースのにおい、閉店セールのスピーカー、自転車のベル、子どもの笑い声。
七海は、見た目だけはツンツンしている"ギャル"なのに、商店街を、コソコソと歩いている。
チャラ男A「ねえ、ちょっと待ってよ」
七海の前に回り込む影が三つ。髪を明るく染めた、年上っぽい三人組だ。派手目のカジュアルな服に、ジャラジャラと多めのアクセ。口は笑っているけれど、目は笑っていない。
チャラ男B「一人? どこ行くの」
チャラ男A「時間あるでしょ」
チャラ男C「かわいいじゃん、話そうよ」
七海は立ち止まる。すくんで、声が出ない。鞄を胸に寄せ、半歩さがる。
——まずい、早く逃げないと……
保育園で七海のことを待っている妹の顔が浮かぶ。七海は短く、そのギャルっぽい姿には似つかわしくない、とても小さな声で言う。
七海「急いでます」
チャラ男B「ちょっとくらい、いいじゃん」
チャラ男A「とにかく、LINE交換しよ」
チャラ男C「写真一枚だけ。ね?」
七海はさらに半歩さがる。肩が固くなり、指先が冷たくなる。チャラい3人は七海との距離をつめる。通路の向こうに人の波はあるが、誰も、ここに介入しない。
暖かく響いていた夕方の音が、遠くなる。
御影「嫌がってるでしょ? やめなよ」
低い、通る声がした。
黒縁メガネの長身が立っている。御影 蓮だ。もう白嶺の制服ではなく、北高の制服を着ている。表情はよく見えない。
チャラ男A「はぁ? なにお前?」
チャラ男C「彼氏?」
御影「違うけど」
御影の声は静かで、本来の力を抑えている。3人のうちのひとりが舌打ちをし、御影の胸ぐらをつかみに行く。
チャラ男B「調子乗るなよ」
どん、と鈍い音。肩で押され、御影の黒縁メガネがずれた。
次の瞬間、拳が飛ぶ。頬に一発。黒縁メガネが飛んだ。
それでも御影は、手を上げない。やり返さない。ただ、ゆっくり顔を上げ、相手の目を、まっすぐに見る。
沈黙。通路の空気が固くなる。
御影の視線は動かない。怒鳴らない。近づかない。けれど、彼と目が合った相手は、一歩ひいた。もうひとりも、肩をすくめる。
チャラ男A「……行こ」
チャラ男C「つまんね」
3人は舌打ちを残し、足早に去っていった。夕方の音が、急に戻ってくる。
七海の鞄が、地面に落ちている。御影はそれを拾い、優しくほこりを払って七海に差し出す。御影の手つきは、ていねいだ。
七海は御影に近づこうとして、足を止めた。やはり、体が勝手に距離をとってしまう。まだ、こわい。それでも気持ちだけは、殴られた御影の頬を心配していた。
七海「……ありがとう」
七海の声は小さい。
御影は軽くうなずく。七海の目線は、赤くなった御影の頬から、自然と、黒縁メガネに隠されていない、御影の目に吸い込まれる。
七海「目……青い」
教室で見た、黒ではない。
透き通った水に、空の色を一滴たらしたみたいな、薄い青。ガラスのコップ越しに見える朝の空みたいに澄んで、光を受けるたび、すこしだけ色がゆれる。
御影「あ、さっきので、カラコン飛んだか」
七海は驚いて、すぐに視線を落とす。心臓がきゅっと固くなる。こわいからじゃない。
御影「俺の目の色のこと、内緒にしておいて」
七海はこくんとうなずく。そうだ、お迎えまで、時間がない。
御影「行って。大丈夫だから」
御影が短く言う。優しい。
七海は「うん」とだけ答えて、駆け出した。
商店街のアーケードを抜け、点滅する信号を超え、子どもたちの列をよけていく七海。
——走っているから? 心臓が、うるさい。
角を曲がる直前、七海は振り返った。
遠くに見える御影は、落とされた黒縁メガネを拾っていた。
長い前髪が風で揺れる。青い目は、もう見えない。御影の手にしている黒縁メガネのレンズが、夕日を反射して、一瞬だけ光った。