第38話 ある家族の新しい日常
御影が、藤咲家の小さなアパートで暮らすようになって、少し時間が過ぎた。
家族の形は、千差万別。
これは、七海と御影が、七海の母親と美香、4人で一緒に暮らす「家族」となってからの時間である。
六畳一間、押し入れと窓、流し台。風呂はない。そこに布団が4組、ギリギリだ。さすがに狭すぎるので、様子を見て、もう少し広いところに引っ越すことを検討し始めてはいる。
突っ張り棒にカーテンを通して、夜は簡易の仕切りにする。仕切りは、事実婚のふたりと、それ以外のふたりの間に、夜だけ引かれる。
弱々しい仕切りだが、ふたりだけの世界を作ってくれる。もちろん、この仕切りでは「そういうこと」はできない。
朝起きると、このカーテンが、男性更衣室、女性更衣室の仕切りに変化する。
それぞれが着替え終えると、朝食の準備とお弁当作りが始まる。これは七海の役割だ。洗濯物を取り込みつつ、新たな洗濯物を入れ、ベランダにある洗濯機を回すのは御影の役割だ。
美香は、ちゃぶ台に食器をそろえる。そのあとは、母親との時間になる。一緒にお絵描きをしたり、絵本を読んでもらったりして、朝食が出来上がるのを待つ。
家族「いただきます!」
でも「ご馳走様でした」は、バラバラ。食べ終わったものから、自分の食器を洗い、拭き、しまう。
美香の食器は、手の空いている者が担当する。残飯は、まだ食べられるものは冷蔵庫に。
貴重な朝の時間。
そうして、ちゃぶ台の上はすぐに片付く。ちゃぶ台の上を拭き、壁に立てかけるのは御影の役割。
玄関では靴べらひとつを無言の順番で回し、戸締まりを確認して、4人で同時に家を出る。母は勤務する病院へ向かう。七海と御影は、それぞれが美香の左右で手をつないで、保育園の送迎バス乗り場へ向かう。
七海「蓮くん、保育園の連絡帳アプリ、もう送った?」
御影「送信済み。外遊び可、熱なし、連絡済み」
美香の保育園。迎えは、事情に合わせて延長保育をお願いする。スマホから連絡帳アプリで延長を申請し、念のためスピーカー通話でも確認する。
七海「本日、18時までお願いできますか?」
保育園「承知しました」
保育園から美香をピックアップするのは、放課後の七海と御影。美香と3人で、いつものスーパーに向かう。だいたいちょうど、値引きシールが貼られる時間帯になる。
もやし、豆腐、鶏むね肉、白菜の外葉。七海の支払いは現金主義。使うときは、鞄の中から封筒を出して、その封筒に入れられたお金を使う。
御影の収入は月に25万ほど。高校生にしては破格だが、自立した夫婦生活には少し足りない。七海もバイトをしているが、収入は月5万円ほどにとどまる。
借金の返済が終わり、看護婦長に昇進した母親の収入と合わせれば、もう、安アパートにぎゅうぎゅうで暮らす必要はない。
ただ、このアパートの家賃が重くないおかげで、生活に余裕が出てきている。
この余裕が、家族の気分を少し上げてくれる。鶏肉ばかりでなく、牛肉や豚肉も、たまには買いたいと思える。必要なら、保育園に延長を申請できる。七海は、それが嬉しい。
夕方のルーティンは、朝と似ているが少し違う。
帰ってきたら、まず弁当箱を洗い、拭いて、すぐしまう。夕食の調理は、七海の仕事。その間に、御影は手際よく洗濯物を取り込み、新たな洗濯物を洗濯機で洗い始める。
御影は、朝、取り込んでそのままになっている洗濯物と、今、取り込んだ洗濯物を全て畳んで、押し入れのカラーボックスにしまう。
美香は、お絵描きをしたり、インターネットで動画をみていたりする。なお、インターネットは、御影が研究に必要とのことで、使い放題の高速回線に変わっている。
七海・御影・美香「いただきます!」
この日は、七海母が残業で、夕食に間に合わなかった。
学校の話、保育園の話、明日の特売品の話。夕食の場では、七海と御影は、連絡事項のようなことを話す。美香だけが、今日の出来事を話している。
母親が帰ってきた。
七海は、ちゃぶ台の上でラップされていた母親の分をレンチンする。レンチンが終わった料理から食べる七海母。
七海母の食器を洗うのは七海。ちゃぶ台を片付け、布団を敷いて、突っ張り棒の仕切りをするのは御影と母親。
この仕切りが、朝と同じように、男性更衣室、女性更衣室を作る。本当は、お風呂の後にしたいけれど、この段階で全員、スウェットのパジャマ姿になる。
そして、4人で銭湯に行く。
100均で買ったカゴに入ったシャンプー、リンス、ボティソープを、男女それぞれが持つ。自分が使うタオルは、ぞれぞれの肩にかけ、家をでる。
銭湯では、男湯と女湯で時間を合わせるコツを覚え、脱衣所で合流してコインドライヤーを譲り合い、牛乳の自販機の前で硬貨を一枚ずつ。
帰り道、体の芯の熱、夜風が気持ちいい。
帰るとすぐ、美香は絵本を一冊だけ読んでもらって、母親の腕の中でうとうとする。美香が寝ると、七海は少し強めに、御影に甘え始める。まだ、腕に抱きついたりする程度だけれど。
六畳の世界に、七海が昔から夢見ていた「普通」が満ちている。
客観的には、七海と御影は、誰もがうらやむ美男・美女だ。しかしそれは、この「普通」を得るための必要条件ではない。
◇
保育園の延長料金を、無理なく負担できる。
放課後のふたりには、少しだけ、寄り道の自由ができた。
ショッピングモールで、少しだけ、いちゃつく。百円ショップで収納かごを2つ追加し、ゲームコーナーはみるだけで通り過ぎる。フードコートでは、水だけで小休止。
七海は少しだけ甘え上手になった。
御影の腕に手を回し、身体を預ける。「ねえ、鞄、持って」と、七海。御影は受け取り、肩紐を調整する。エレベーターの鏡に映る自分たちの姿が、なぜだか可笑しくて、七海が笑う。
月末にはカレンダーに封筒の残額、保育園の延長の回数、銭湯の回数券の残りを記す。母がシフトを書き込み、御影が買い物当番の日に丸を付け、七海は米びつの残りを量ってメモに移す。
就寝前。
七海母「蓮くん、バイト収入、月額25万だっけ? その年齢ですごいね」
御影「まだ、時間に余裕あるんで、必要なら増やせます。強がりじゃなくて」
七海母「それ、七海の暴発リスクとトレードオフなの、わかってるよね?」
御影「時間、余裕ないっす」
七海母「蓮くん。ならさ、七海との時間を大事にしつつ。時給を上げる方向で、考えてみない?」
七海「なに言ってるの、お母さん。蓮くん、もう、すごい時給なんだよ?」
七海母「あんたたち、ふたりの生活費を、ふたりで出せるようになった方がいいと思ってね。そしたら、周りも自然と『夫婦』としてみるし、何より自分たちの自信になる。自立できてる実感は、必ず、あなたたちの武器になる」
七海「……やってみたい」
御影「将来に向けて、もっと貯金したいのも事実です。実は、全く同じことを、母にも言われています。母に借りてもらっていた賃貸マンションを解約するときに、『そこまで根性あるの、我が息子ながらあっぱれだよ。どうせなら自立しちまえよ、ガチ、かっこいいぞ!』って言われてます」
七海母「蓮くんのお母さんと私、きっと仲良くなれるわ。早く、会いたいな。じゃ、おやすみ。カーテン、閉めるよ」
カーテンが閉まる。ふたりだけの時間だが、カーテンの向こう側では、当然、七海の母親にも会話が聞こえている。
七海「何のための貯金?」
御影「七海が、医学部で勉強するための貯金」
七海「奨学金をもらって、バイトもするから大丈夫だよ」
御影「医学部に合格するような猛者を相手にして、奨学金をもらうような成績を維持するのは、かなり難しい。あと、そもそも医学部は勉強で忙しいから、バイトなんて、普通、そんなできない。もし、私立の医学部に行くことになったら、学費だけで数千万、桁違いのお金が必要になる」
七海「そんな金額! 私立なんて、絶対に無理だよ」
御影「俺は、七海の人生を諦めたくない。七海は、私立に行きたいと願うかもしれない。その可能性も、できるなら、捨てたくない。実際には、無理かもしれない。でも、できるなら、なんとかしてあげたい。そう思うのが、家族なんじゃないの?」
七海「蓮くんは、医学部に進まないの?」
御影「俺は、日本の大学に行くとしたら、数学科だね。医学の領域で研究をするけど、俺の研究に、医師免許は必要ない」
七海「海外、行っちゃうの?」
御影「アメリカのプリンストン大学には、いずれ行きたい。でも安心して。日本で暮らしながらで問題ないはず。数学的な研究だから、実験室はいらない。オンラインで、なんとかなる」
電気を落とすと、カーテンの向こうから規則正しい呼吸がふたつ、聞こえてくる。
4人の暮らしは、銭湯の回数券、買い物袋、連絡帳アプリ、封筒の残額でできている。大げさな幸福ではない。けれど、湯上がりの肌に残る熱や、小さなちゃぶ台と一緒に、それは確かに、ある。
美男・美女であることは、この幸福にとって不要である。その事実が、七海にとって、心地いい。やっと人間になれた気がするから。
七海は布団の中で、隣にいる御影の腕にからみつき、音が出ないよう注意しながら、御影に口づけをした。御影は、離れていく七海の唇を追いかけようとして、自制する。
七海に、御影が我慢してくれていることが、はっきりと伝わってくる。
——こんなにも、こんなにも安心して眠れる夜が、来るなんて
第38話まで、お読みいただきました。本当に、ありがとうございます。嬉しいです。
少しでも、読めるところがあったなら、是非とも☆評価をお願いしたいです。執筆の励みになると同時に、明日もまた頑張っていこうという気持ちになります。
さて。
後にもう少しだけ詳しく述べますが、銭湯、素晴らしいですよね。一番のポイントは、お風呂上がりの時間が、大切な家族と重なる、揃うというところです。これで、関係性が良くなる可能性が上がります。
引き続き、よろしくお願い致します。




