第36話 学ぶべきこと
昼休み早々に、御影たちを置き去りにし、七海は、図書室で端末を叩いている。
恋愛を含めた、人間関係と病理について研究している医学部はないか。ある、ある、ここの大学も研究している。
——恋愛について考えることは、やっぱり、医学の一部なんだ
日本では、少なくとも2つの国立大学の医学部が、対人関係と苦痛の相関や、対人ストレスと健康の相関を研究している。心を含めた医療を考えている医師が、日本にも、たくさんいる(注)。
アメリカでも、少なくとも3つの医学部が、夫婦ストレスと免疫の関係や、人間関係を中心とした医療と研究を行っている。スウェーデンにも、研究所がある(注)。
続いて、七海は、「恋人が手をつなぐことの医学的効果」について調べてみた。信頼性の高い論文が複数見つかった。七海は、アブストラクト(論文内容の要約)を翻訳ソフトを使って手早く読んでいく。
七海「配偶者と手をつなぐだけで、前頭前野・前帯状皮質・扁桃体など『脅威処理ネットワーク』の活動が広く低下。配偶者>見知らぬ人>誰ともつながらない、の順で効果が大きい(※1)」
七海「恋人・配偶者・友人など『親しい相手』との手つなぎで脅威反応が低下。見知らぬ人との手つなぎでは低下せず。主観的不安も減少(※2)」
七海「手をつないだ条件で、2人の脳活動の『カップリング(同期)』が上昇し、同期が高いほど痛みが小さくなる。共感の高さとも関連。手つなぎの鎮痛メカニズムの神経基盤を示唆(※3)」
七海「恐怖学習の『消去』の場面で手をつなぐと、その後の『脅威記憶の再燃』が抑えられ、前頭前野の血行動態反応が増強。単なる『物体を握る』や『隣にいるだけ』では再現せず。手つなぎは安全学習を助け、のちの不安再発を弱め得る(※4)」
——こわい記憶が、再燃しなくなる
七海「あっ! 私が、男子のこと、こわくなくなったのは、蓮くんと手をつなぐようになったからなんだ! 男子に慣れたとか、そんな単純なことじゃなかった!」
急いで、この4本の論文をプリントアウト申請する七海。図書委員が、プリントアウトされた論文を七海に渡す。プリントアウト代金を支払う七海。
——この代金の支払いは、まったく惜しくない。医学になら、お金をかけたい
その論文を持って、走ってはいけない校内を、七海は走る。「こら、藤咲!」と教師。その呼び声にも止まることなく、七海は、一気に階段を駆け上がる。
昼休みが終わるころ、息を切らして、屋上に登場する七海。まだ、御影たちがいた。胸に大事そうに抱えられた論文は、七海の汗をたっぷり吸い込んでいる。
七海「私、蓮くんに治療してもらってた! 蓮くんじゃなきゃ、私のこと、治療できなかった! 私、医学がやりたいっ!」
喜びに泣き出す七海。あわてる夢咲、美月、カイオ。
七海は、もう、止れない。
御影は、七海が持ってきた論文のアブストラクトを読んでいる。
夏の終わりの空みたいな色をした、御影の瞳孔が開く。
御影が、論文に集中している。七海の相手をしていた夢咲、美月、カイオが、その異様な気配に気づき、思わず振り向く。
みたことのない、鋭利な刃物のごとき緊張感が漏れてくる、御影の表情。
御影「手をつなぐと、2人の脳活動の『カップリング(同期)』が上昇……自己組織化。もしかして、縞模様がみえてるんじゃ……」
昼休みの終わりを示すチャイムが鳴る。
北高のチャイムは、七海と御影のふたりにだけは「結婚」の意味がある。
御影の頬を、一粒の涙がつたう。
立ち上がり、御影のほうを振り向く七海。どちらともなく、近づくふたり。
七海の中で、あの日、父親の墓前で聞いた荘厳な音が鳴る。
——七海、大きくなったね。そうだよ、七海。自分が学ぶべきことは、そうやって決めるんだよ。
【筆者注】人間関係を医学の一部として研究している医学部は、実際に、少なくともこの数だけ存在していることを確認しています。ただしこれは、医学の素人である筆者が、2025/8/26時点で調べたものです。あくまでもフィクションの一部として考えてください。実際とは異なる可能性や、そもそも間違っている可能性もあるため、この記述による意思決定は、絶対にしないでください。
第3章の終わり、第36話までお読みいただきました。本当に、ありがとうございます。嬉しいです。
少しでも、読めるところがあったなら、是非とも☆評価をお願いしたいです。執筆の励みになると同時に、明日もまた頑張っていこうという気持ちになります。
さて。
以前、後書きでも予告した、大切な人と手をつなぐことの意義について、ご紹介するエピソードです。僕も、これらの論文を読んで驚きました。大切な人と手をつなぐと、心だけでなく、脳の活動まで同期するというのです。人体って、すごいですね。
引き続き、よろしくお願い致します。
参考文献;
1. Coan, J. A., Schaefer, H. S., & Davidson, R. J. (2006). Lending a Hand: Social Regulation of the Neural Response to Threat. Psychological Science, 17(12), 1032–1039.
2. Coan, J. A., Beckes, L., Gonzalez, M. Z., Maresh, E. L., Brown, C. L., & Hasselmo, K. (2017). Relationship status and perceived support in the social regulation of neural responses to threat. Social Cognitive and Affective Neuroscience, 12, 1574–1583.
3. Goldstein, P., Weissman-Fogel, I., Dumas, G., & Shamay-Tsoory, S. G. (2018). Brain-to-brain coupling during handholding is associated with pain reduction. Proceedings of the National Academy of Sciences, 115(11), E2528–E2537.
4. Pan, Y., Sequestro, M., Golkar, A., & Olsson, A. (2024). Handholding reduces the recovery of threat memories and magnifies prefrontal hemodynamic responses. Behaviour Research and Therapy, 183, 104641.




