第12話 七海の病室、ほんとうのこと
消毒液の匂いと、規則的に刻まれる電子音の中にいる。
七海は、水面から浮かび上がるみたいに、ゆっくりと自分の意識を拾い上げた。
天井の白、点滴の細い管、軽い掛け布団。喉は乾いて、唇が少し痛い。
美月「……七海?」
近くで、美月の声がした。いつも冷静な美月に、隠しきれない動揺が混じっている。
やわらかな影が、身を乗り出して
夢咲「七海! 起きた! 起きた!」
そのまま夢咲は反射的に立ち上がり、スリッパを鳴らして廊下へ飛び出していく。「すみませーん! 意識戻りましたー!」。「よかった!」と応じる声が、遠くでした。
美月は安堵の息をひとつ漏らし、すぐにスマホを取り出す。親指が高速で、迷いなく動く。
美月「七海のお母さんに連絡。担任にも。……あ、美香ちゃんは、一旦、うちで預かってるから、心配しないで」
七海は、ぼんやりと視線を巡らせる。ベッド脇の椅子に「大きな人」がいるのに気づいた。
御影が座っている。いつもの黒縁メガネは、かけていない。
七海は、まだ意識がもうろうとしている。部屋の明るさが、強い。七海には、そこにいるのが御影であることはわかるけれど、よくみえていない。
七海が瞬きをすると、御影は小さく会釈した。
夢咲と美月から事情は聞いている。こっぴどく怒られたと前置きしてから、御影は、最初の言葉を選ぶ。
御影「ごめんなさい」
七海は、かすかに頷く。御影は、言葉を探しながら続ける。
御影「俺は……他人の感情はもちろん、自分の感情すら、読み取るのが苦手なんだ。いつも、どこまで踏み込んでいいか、こわくなる」
七海の頬に、さっと血がのぼる。七海にとって、御影と、ちゃんと話をすること自体が、初めてのこと。七海の顔が真っ赤になる。けれど、なぜだか、恥ずかしくない。
——そうか。御影くんも、こわかったんだ
そして、目が覚めた実感より先に、御影がここにいるという事実が、七海の胸を満たす。
髪、乱れていないだろうか。パジャマの襟、曲がっていないだろうか。場違いな心配が、次々と浮かんでくる。
点滴スタンドの陰から、美月が少し呆れたように、
美月「七海、あたしゃ、あんたのことが、よくわからないよ」
言い方はきつくない。そこに御影がいるだけで「テンパって」しまっている七海のリズムを、日常へ引き戻すための合図だった。
そこへ、夢咲が、看護師と一緒に戻ってきた。「血圧測りますねー」「はい」と短いやり取り。それから手際よく、色々と、チェックされていく。
カーテン越しに夕方の光が薄くなり、病室の機械音が減っていく。
看護師が去ると、部屋に静けさが戻った。
御影が口を開きかけた。その瞬間、七海は、御影の瞳が透き通った青であることに気づき
七海「目……青い……」
七海は、小さく息をのんだ。
——御影くん、カラコン外してる。青い目のこと、もう、秘密じゃないんだ
七海の言いたいことを察した御影は、
御影「楢崎さんと矢入さんに、事情を説明する必要があったから」
と、静かに告げる。やはり、優しい声。
御影「こちらから内緒にしてとお願いしたのに、ごめん」
七海の胸が、ちいさくキュッとなる。
——ふたりだけの秘密だったこと。私、それ、嬉しかったんだ
七海は、御影が、さらに謝罪の言葉を選んでいる気配を察する。
七海は、呼吸を整え、喉の渇きを一度だけ飲み込んだ。そして、言葉を探すことに困っている御影よりも先に、それを言葉にする。
七海「御影くん」
御影の視線が、七海とまっすぐに合う。一生、忘れることのない大切な情景が、いま始まろうとしている。そのことが、七海と御影には、はっきりと感じられた。
御影の目の青が、病室の白を反射して、もっともっと、青くみえる。
七海「御影くん。私、あなたのことが、好きです」
言い切ったあと、七海は、かつて経験したことのない安堵で満たされた。そして七海は、やわらかな笑顔をみせる。
同じ病室にいる美月の指先が止まる。夢咲は、声にならない歓声を胸の内で爆発させ、両こぶしをギュッと握る。
御影の、青さを増している瞳が、大きくなる。
このとき七海には、御影の瞳の奥にみえる「すっきりとした青空」が、どこまでも広がっていくように感じられた。
七海「ほとんど話したこともない……自分でも、なんで御影くんのこと、そう思うのかわからない。そういえば、ちゃんと顔もみたことない」
沈黙。
夢咲と美月の目に、涙があふれる。こんなにも大切な会話を、七海は、自分たちには聞かれても構わないと感じてくれている。
七海「なんで私が……御影くんのことを、こんなに特別に感じるのか……その理由なんて、どうでもいいの」
たまらず、夢咲が声をあげて泣き始める。美月も泣きながら「ちょっと、夢咲!」と、肩を抱く。
七海「御影くんが特別なのは、『ほんとうのこと』。だから、その理由を知る必要なんてない」
七海はまぶたを閉じ、そして、ゆっくりと開く。
七海は枕元の水を、美月に支えてもらいながら一口だけ飲む。
夢咲のすすり泣きだけが、この病室の音になった。御影は、自分の中に生まれた感情に、名前をつけられないでいる。
七海「髪、ぐちゃぐちゃで……恥ずかしい……」
病室の空気が変わる。
美月「大丈夫。そういうことになると思って、借りてある」
美月は、クシをみせる。そして、七海の前髪を整え始めた。
夢咲「七海、あんたいま、世界一かわいい。だから、心配ない」
御影は思案し、少しだけ目を細め
御影「きみと会えて、よかった」
とだけ言った。それは、理由を問う必要のない「ほんとうのこと」。
御影は、なにかを考えている。
みなには、御影はいま、自分の中にある「ほんとう」と向き合おうとしているようにみえる。
同時に、御影はまだ自分の中に「七海のことが好き」という感情をみつけられていないように、伝わってしまう。ほんとうに、そうなのだろうか。
ほどなく、廊下の向こうから小走りの足音がする。七海の母親が到着した。「七海!」と短く名を呼んで、まず体温計を確認し、看護師に礼を言ってから、七海の手を握る。
七海母は、元気そうな七海を見て、ほっと息をつく。そして、「みんな、ありがとう」と微笑んだ。御影にも会釈をし、
七海母「あなたが御影くんね。うちの七海が、お世話になってます。うわ、なにそのキレイな目!」
御影は椅子から立ち上がり、会釈をし、「いえ」と短く返す。
七海は、このやり取りを聞きながら、少し不機嫌になる。
——やっぱり、御影くんの目の秘密が、秘密でなくなるのは嫌だな
七海は、そんな風に嫉妬をする自分に気づいて、なんだか嬉しくなる。
——私は、御影くんにとって「特別でありたい」と願ってる。ほんとうに、好きなんだ
看護師が、面会時間の終わりを告げる。
七海母は「それじゃあ!」と言って、美月の家にいる美香を迎えに行くため、美月と病室から出ていく。
夢咲は「明日また来る」とだけ言って、病室を出た。
その直前、夢咲は七海の耳元で「告白、やばかった」とささやき、親指を立てる。美月はそこに、「まだ、これからだからね。安心しないで」と小声で付け加えた。
病室には、七海と御影だけが残されている。
もちろん、偶然ではない。七海母、夢咲と美月の「シンクロ率100%」のセットアップだ。
自分にとって大切な人が、大切にしていることを、理由を問うことなく、大切にする。
これは、そういう人間たちの物語だ。
静けさの中、御影が先に口を開く。
御影「君と、もっと、話がしたい」
七海は、ゆっくりとうなずいた。
眠気がやってくる。まぶたが重くなる。御影の青い目。夢咲の笑顔。美月の優しい指先の感触が、同じ画面の中で重なっていく。
——ほんとうのこと、言えた
とうとう、第12話まで来ました。告白です。ここまでお読みいただき、本当に、ありがとうございます。
少しでも、読めるところがあったなら、是非とも☆評価をお願いしたいです。執筆の励みになると同時に、明日もまた頑張っていこうという気持ちになります。
さて。
御影は、「君と会えてよかった」「君と話がしたい」と述べています。「知りたい」とは、微妙にニュアンスが異なります。七海は「知りたい」「好き」でした。この違いは、どこから来ているのでしょう?
引き続き、よろしくお願い致します。




