第11話 次の論文、その意味は
放課後。教室は、補習前のザワザワ。
——謝らなきゃ。御影くんに、論文のこと、夢咲と美月に話したって
御影は、教室の出入口に手をかけながら、掲示板を一度だけみた。それから、机に戻ってくる。
七海は呼吸を整え、声を出そうとした。しかし、喉ぼとけのあたりで、また言葉がとまる。
——どうしよう、言葉が出てこない
そのとき、御影のほうが先に口を開いた。
御影「藤咲さん」
七海は驚いて顔を上げる。
——はじめて、名前を呼んでもらえた!
教室には、数名、他の生徒もいた。数名でも、人前で話しかけられた。それだけで、七海は、顔を赤くする。
御影は、鞄からA4、20ページほどの紙の束を取り出した。
御影「これも、おせっかい」
七海に差し出されたのは、また英語の論文だった。
(Updating P300: An integrative theory of P3a and P3b.)
七海は論文を受け取り、大切そうに、胸の高さで両手に挟んだ。用意していた言葉が、いまなら出せる気がする。
七海「前にもらった論文のこと、友だちに言っちゃいました。ごめんなさい」
言い切った瞬間、七海は「もう嫌われた」と勝手に確信してしまう。肩の線が小さく沈む。涙が、思っていたより早く溢れた。
御影は、驚いたように一瞬、上半身を後ろに引いた。それから、ほんの少しだけ首を横に振り、
御影「大丈夫だよ。秘密にしてもらいたいことなら、ちゃんとそう言うから。この論文のことも、友だちと共有してもらって構わない。大切な友だちなんだろ?」
言い方は平坦なのに、やわらかかった。優しかった。七海は、いまは黒のカラコンで隠している、あの青い目のことを思い出した。
——御影くんの目の色のことだけは、絶対に、秘密にする!
御影はポケットからハンカチを取り出し、七海に渡そうとする。七海はそれを断り、自分のがあるからと、鞄からハンカチを取り出して、目の端を押さえた。
七海「ありがとう」
御影「じゃあ俺、補習、始まるから」
御影は短く告げ、扉のほうへ向かった。七海は、その御影の背に小さく会釈をし、論文を大事そうに抱え、教室を出る。
七海の胸の中は、さっきより、ずっと整った形になっている。
◇
その日の夕方。
六畳のテーブルに、辞書とノートと新しい論文がある。七海は見出しを指でなぞり、あらためて、音にならない小さな声で読む。
(Updating P300: An integrative theory of P3a and P3b.)
本文を開く。知らない単語が次々に立ち上がる。
"event-related potential / oddball / novelty / attention / context updating / P3a / P3b"
辞書をめくり、論文の余白に訳を書き込む。「事象関連電位」「オッドボール刺激」「新奇性」「注意」「文脈更新」「P3a/P3b」。日本語には訳せても、意味が全然わからない。
——難しい
読み進めるほどに、霧は濃くなっていく。
脳波、頭皮上の電極、数百ミリ秒後に出る波。
個々の単語は訳せても、意味を持った形にならない。
——P3a は「驚き」? P3b は「意味を更新する合図」?
書かれていることが、七海のどこに関係しているのか、みえない。
七海は、顔を上げる。
靴音で、巡査の近藤さんが、アパートの近くを見回りをしてくれているのがわかる。
——難しい。けど、知りたい。
七海は、固定電話の受話器を取り、メモを見て、ダイヤルをプッシュする。
七海「もしもし、七海です。ごめん。でも……相談したいことがあるの」
夢咲『行く。今から行く……美月も……なに? 見月……え……ああ、今からじゃなくて、補習終わってからになるらしい。夕飯、みんなで食べながらでもいい? 美月も……いいよね? いいって!』
夜の8時前。夢咲と美月のふたりが、アパートの階段を上がってくる。玄関で、美香が「ようこそ」と両手を広げる。七海母は、まだ帰っていない。
テーブルには、使い込まれた英和辞典と論文、七海のノートがある。
七海「ちゃんと、御影くんから、『論文のことは話していい』と、許可をもらっています」
夢咲は、ツボって苦しそうに笑いながら
夢咲「ふたりの関係、めちゃくちゃ、仕事みたいになってる! あんたら、まず、友だちから!」
美月も、つられて笑った。しかし七海は、あくまでも真剣だ。
七海「新しく、この論文をもらったの。今度は、手渡しで」
美月「進展してる!」
七海「でも、読んでみても難しくて……わからないの」
夢咲「いやさ、七海にわからんなら、私らにもわからんよ」
美月はノートを覗き込み、ゆっくり整理する。
美月「P300は、何かに気づいたとき、脳波に現れる『山』のことみたい。P3a は刺激に対して『おやっ?』と注意を向けること。P3b は『わかった』と感じること」
夢咲「おい、七海さんよ。やっぱり、まったくわからんぞ」
美月「私も、わかんないや。ほかに、ヒントはない?」
七海「珍しい物事に出会って、ビクッとなるのがP3a。で、それに、意味をつけるのがP3b。この2つが合わさって、P300として現れる……みたいな?」
夢咲「Pなんとかっていうの、やめてもらえますか? 点P ってやつは、いっつも勝手に動き出すからな、ムカつくんだよ」
七海「出会った物事が、その人にとって珍しければ珍しいほど、意味づけされやすい……みたいな」
夢咲「え……ちょっと、なんかわかったかも。七海が『珍しいほど魅力的』だった。だから、七海の存在を『自分にとって特別なもの』と意味づけしたってことじゃね?」
美月「こんな告白の方法、あるんだね。ちょっと、感心する」
残念ながら、七海は、そう感じなかった。
まず、これまで御影は、七海に対する強い気持ちをみせていない。なので、七海は、この夢咲と美月による推測が、どうしても信じられない。
それよりも、御影の目の色が青いという、七海にとって、かなり「珍しく感じられたこと」を考えたほうが、正解に近づける気がする。
——みたことのない色の、御影くんの目を見てビクッとなった。それが P3a かもしれない
七海「まって。御影くんが、名門校から北高に転校してきて、教科別トップと赤点を同時に取って、背もかなり高くて、こうやって英語の論文も知ってて…...そういう御影くんの珍しさが P3a だとしたら?」
——その上さらに、あの目の色のこともある
美月「おっと、そうなると……」
夢咲「七海が、『御影のこと知りたい』ってなったのは……御影が普通じゃない、珍しい存在だから?」
七海「御影くんのことを『知りたい』っていう気持ちは……単に、御影くんが『珍しいから』だって言いたいんだ! 違う! それ、違うっ!」
——そうか、私は、御影くんのことが、好きなんだ
夢咲と美月は、聞いたことがない七海の大声に驚く。
続けて、七海は、爆発するように泣き始めた。圧倒される夢咲と美月。怯える美香。
夢咲と美月は、ふたりで、震える七海の身体を必死に抱きしめる。
七海の震えは、どんどん大きくなる。それから七海は、ゆっくりと息を吸い込んで、意識を失った。
これで、第11話までお読みいただいたことになります。本当に、ありがとうございます。嬉しいです。
少しでも、読めるところがあったなら、是非とも☆評価をお願いしたいです。執筆の励みになると同時に、明日もまた頑張っていこうという気持ちになります。
さて。
何かに驚き、それに意味づけを行うという脳科学的な話です。驚くことは、驚くのです。問題は、それにどういう意味を持たせるかです。ここで、すれ違いが起こります。現実の恋愛でも、既読無視の意味づけなどで、すれ違うことも多いでしょう。
意味は、その人の経験や価値観によって決められます。意味は、その人個人の解釈ですから、誤解も生まれやすいでしょう。だからこそ、統計的事実=平均的な傾向を、論文で理解しておくことが重要だと思っています。
引き続き、よろしくお願い致します。
参考文献;
・Polich, J. (2007). Updating P300: An integrative theory of P3a and P3b. Clinical Neurophysiology, 118(10), 2128–2148.




