第1話 夏の終わりが連れてきた転校生
繰り返し実証されており、査読のあるトップジャーナルに掲載された研究によれば、恋愛が人間を成長させる(※1, 2)。
この物語は、ある初恋のはじまりと、その当事者たちの成長に関する、私の研究成果をまとめたものである。
つきまして、浅学非才の身ながら、みなさまによる査読をお願いしたく、ご連絡差し上げた次第である。
八海クエ
北川高校の夏休み明け。
藤咲 七海は、1年B組にいる。
七海は、身なりでこそギャル風に整えてはいる。
しかし、彼女の清廉さは、まったく隠せていない。周囲から自然と視線を集めてしまう、髪の長い、目鼻立ちの整いすぎた少女。
教室は少し暑い。エアコンの風はぬるくて、カーテンをゆっくりふくらませては、しぼめている。
担任「今日から、このクラスに転校生が来ます」
ドアの金具が軽く鳴る。廊下の方から、乾いた靴音がしてくる。
濃い紺のブレザー。胸には小さい銀色のエンブレム。ネクタイは細いしま。北川高校の制服じゃない。
——ああ、知ってる。神戸の名門、白嶺学院の制服だ。
女子A(あの制服って……高校生クイズ番組でいつも優勝してる……)
男子A(昨日のテレビでも、あのエンブレム、出てた……)
黒縁メガネ。長い黒髪。前髪に隠れて、顔はよく見えない。背は高い。細い。張り詰めた雰囲気。
クラスのざわざわが、消えた。
御影「御影 蓮です。よろしく」
低くて、静かだけど確かな声。ぶっきらぼうで、短い自己紹介だった。
その瞬間、黒く見えていた御影の目の色が、七海には"ゆれた"ように見えた。
——いま、目の色、変わった?
御影の席は、七海の後ろになった。椅子がきしみ、机の脚のゴムが床をこする音がする。
七海は、男性のことが、病的にこわい。だから七海は、いつも男性から物理的な距離を取る。男性から名前を呼ばれたら、半歩さがる。七海には、そんな癖がついている。
だから男性が近づくと、普段なら、七海の身体はこわばる。でも、御影を背にしたこのときは、肩が少し固くなっただけ。不思議と、すっと力が抜けた。
——なんだか、彼は、こわくない?
それでも七海は、すぐ後にいる御影の気配を、ずっと意識してしまう。
御影が出す音は、とても小さい。シャープペンの芯を出す動作も、一回だけ、カチ。目線も、ほとんど動かさない。前髪が邪魔になると、首をそっと傾けるだけ。動作に、無駄がない。
記憶『どうして、あんなこと言ったの? レネーなんて、大嫌い!』
七海の頭のどこかが、チリッと光る。すぐ、消えた。夏休みに見た、あの陽炎みたいに、形にならない。
——なに、いまの? レネー? 誰?
チャイムが鳴る。最初の休み時間。
教室はにぎやかになった。外では、セミが鳴いている。なんだか無駄に、色々な音が大きく聞こえる。
転校生、御影には、まだ、クラスの誰も話しかけていない。どこか人間とは違う種類の"危険な生物"みたい。みんな、御影のことを警戒している。
七海も、少しだけ御影を警戒する。けれど……
——彼、静か。きれい。
七海は、振り向かない。
七海は、付箋を出して、そこに『以前、どこかでお会いしましたか?』と書く。それを二回折って、ペンケースにしまう。
——このメモは、きっと、彼に渡さない。
2時間目。
黒板消しからチョークの粉がふわっと舞って、光を反射する。
七海は黒板の文字を書き取りながら、視線を窓のほうに向けた。
ガラスに、うっすらと御影の姿が映っている。御影の肩は、七海の頭よりも高い位置にあった。
——大きな人。顔、見えないな。
そう思ったとき。ガラスの中の御影が、少しだけ顔を上げた。
光が黒縁メガネのレンズにあたって、きらっと走る。レンズの角度が変わる。光が消えると、代わりに一瞬だけ、薄青い色が見えた。
七海の心臓がきゅっと固くなる。
——放課後、話しかけてみよう。
七海は、御影に、生徒会からのプリントを渡すことを思いつく。短く「これ、今月のぶん」と。それだけ。こわくて、逃げたくなったら逃げてもいい。無理はしない。
3時間目。
七海の、シャープペンを走らせる手が、ふと止まる。自分のつま先が、ほんの少しだけ後ろのほうを向いている。七海はそれに気づいて、つま先を前に戻す。深呼吸。
男子B「起立ー、礼ー」
昼前のチャイム。クラスがわっと動く。
七海は席に座ったまま、窓からの光を手の甲で受ける。また、窓ガラスに映った御影を見る。
このときも、御影の目の奥がふっとゆれて、黒とは別の色に見える。だが、すぐにまた黒に戻る。そして長い前髪が、御影の顔を隠す。
——やっぱり、彼は、あまりこわくない。なんでだろう。
七海から半歩だけ後ろにいる御影。その御影には、他の男性が近づいたときに感じる"耳の奥のザワザワ"が、ほとんどない。
夏は終わりかけ。空は白っぽくて、雲は薄い。
七海の頬がぬれていた。七海は、それを指でさわって、びっくりする。
——涙。こわい涙じゃない。あたたかい。たぶん、私、うれしいんだ。
七海の胸の奥で、小さな花がひらいたみたいに。それは、ふわっと広がった。
参考文献;
1. Aron, A., & Aron, E. N. (1986). Love and the expansion of self: Understanding attraction and satisfaction. Hemisphere Publishing Corp.
2. Drigotas, S. M., Rusbult, C. E., Wieselquist, J., & Whitton, S. W. (1999). Close partner as sculptor of the ideal self: Behavioral affirmation and the Michelangelo phenomenon. Journal of Personality and Social Psychology.