第74話 密約(10)
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フーベルトたちと別れた後、マイクは同じフロアにあるアイクのオフィスとは対極の位置にある、奥まった一室へと足を向けた。
扉の前で一度立ち止まり、無言で二度ノックをする。
すぐに中から、入れという合図。呼ばれた相手は察したのだろう。
「お呼びでしょうか?」
「・・ああ、呼んだ」
低い声で応じたのは、広い執務室の中央に構えるキールだった。
アイクのオフィスより数段も広い空間。だがその威容よりも、近づくにつれ漂ってくる鼻を刺すような異臭が強く印象に残る。
マイクは眉一つ動かさず、無表情を貫いた。
「まあ、そう気を張るものでもない。私から流した件の進捗はどうだ?」
キールの表情は薄く柔らかい笑みを浮かべているが、その目には冗談の色は見えない。
彼が言っているのは聖獣の羊についてのことを言っているのだろう。
暗号解読に注力していいることを話す。
「それは結構。あの類の物は時間をかけないと解けない。だから時間と体力を持て余す君たちに回したんだ」
言葉の端に、軽い皮肉が滲んでいた。
「まあそんなことはいい。君を呼んだのはこの件で、だ」
そう言ってキールは脇にある書類束から一枚のファイルを取り上げて、マイクへと見せる。
「私の部下にまとめさせた。長々と書いてあり。わかりにくいので私が要約しよう」
キールはその資料を掲げながら、目を細めて笑う。
「マイク、君に無断の住宅侵入の嫌疑が出ている」
一拍の沈黙が落ちる。
空気が、さきほどまでとは質の異なる緊張で張り詰めていった。
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「そんなの知らないとか、なぜ知っているとかはどうでもいい」
キールの声は氷のように冷ややかだった。
マイクが言い訳を挟む余地など、初めから用意されていない。
マイクはその言葉を受け止めながらも、不思議と焦りを感じていなかった。
キールの意図は完全には読めていない。
だがそれでも自分が立たされている立場についてはすでに把握している。
「問題なのはそういう事実があり、不幸にも証拠も揃ってしまっていることだ」
「私の信条は疑わしきは罰せず。せめて証拠さえでなければよかったものを」
彼の表情は言葉の表現とは裏腹に少し清々しさが混じっていた。
まるで優秀な生徒の粗をようやく見つけた性格の悪い教師のような顔。
「もっとも、安心していいのは未だのことを検事局が知らないという点だろう」
ここで彼の言葉が少し柔らかくなる。
本気で安心させようとしているのか、それとも見せかけか。
「・・とはいえこれを発見した以上、私にも通報義務が生じるのは明らか」
キールは椅子に身を預け、淡々と続ける。
「私の部署は魔法犯罪を統括する。それは外部に対してだけではなく、内部統制機能としての役割も期待されているということ。言いたいのは起こりうる可能性は排除しておきたい」
マイクは黙したまま視線を伏せた。
今回の件、依頼者宅への無断侵入はアイクの指示によるものだ。
もちろんリスクは予見していた。だが、過去はうまく隠せてきたし、今回はアイクが主導していたこともあり、油断があった。
だから証拠の隠滅も甘かった。
「ただでさえ君の名前は聖邦連合から嫌われている。こんな叩いたら出るような埃を見過ごしていると君一人の問題ではなくなるんだ」
これは己が蒔いた種だ。
過去の非行歴が尾を引き、今の足をも引っ張る。
「そこで一つ問う。これは君の意思でしたのか?」
キールの口調はあくまで丁寧だ。
だがどんなことを仕掛けてこようと、こんな展開になった場合の結末は自分で用意している。
「・・・ええ、もちろん。成果欲しさに私自身の判断でやりました」
「脅しが足らなかったか。ならはっきり言おう。この件で君を解雇するのは造作もない。君1人のせいにして尻尾を切るように捨てればいい話だからな。だがもしそこに少しでもアイクの意思が介入しているとしたら君を救うことができる」
「君の活躍は部下から聞いている。物覚えがよく、優秀。そしてなによりそこまで連合に憎まれるのは誰でもできることじゃない。誇っていいだろう」
「なにより君はここに入ったのは独学だと聞いている。なら積み重ねた努力はとてつもない物だろう。君が言っていることはそれを無為にするということだと理解しているのか?」
マイクの胸には確かに今の地位の惜しさはある。
せっかく夢であった協会へ来ることができ、マイクの人生はこれから。
捨てるには勿体無い。
「・・・もちろんです。確かにここにくるまでに人の数倍の努力をしてきたと自分でも言えます。ですがそれが公権力の濫用を正当化する事由にはなりません」
だが、それでもこの短期間で得たものは少なくない。
世界屈指の神童と喧嘩をし、やがて友となった。
異才の魔女と魔法について語り合った。
そして、薬物中毒者と共に見捨てられた魔族を救った。
なんて濃い時間を過ごしたのだろう。
常人が一生をかけても味わえぬ経験をこの短期間でいくつしただろうか。
「なら自分が責任を被ると?アイクを庇って?」
「これは私の罪です」
澱みなくマイクが答える。
「君の気持ちはわかる。アイクへ恩を返そうとしているんだろう。だが無駄なことだ」
キールの声は今までで一番、感情を含んでいた。
「彼への責任は君を雇った時点で発生している。例えアイクがこの罪を逃れようが、私は管理者責任を問うこともできる」
「・・たとえ私の行動が先生のためにならないならこれは自己満足でいい。先生の何よりの恩はこの私を雇ってくれた事。ここはトレント。学歴のない獣人をどれだけ雇ってくれる人間がいるでしょうか?」
マイクは静かにそう言う。
「・・・その情報を検事局へ流すなら好きにしてください。ですが私の気持ちは変わることはない」
マイクは踵を返し、扉へと向かう。
その時――
「・・・待て」
部屋を出る寸前、キールが低く声をかけた。
「君の意思は理解した。幼いながらの親孝行心には感心する」
わすがに鼻で笑いながら、キールは椅子から立ち、だんだんとマイク方へと近寄る。
「だからこうしよう。君のこの行為を不問とし、証拠もこちらで処分しておく。アイクの責任問題も白紙にしよう」
マイクの頭で、キールの思惑をさまざまな形で予想する。
だが明確な形にならない。
キールは答えを口に出すことなく、代わりに一枚の契約書を差し出す。
「その代わりに条件を呑んでもらう。もちろん、君の父上には迷惑をかけない。クビになるよりもマシなはずさ」
キールの笑みは歪んでいる。
その奥にあるものをマイクは見抜くことができなかった。
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