第52話 シンデレラ(8)
今日もなかなか眠れない。
それは今夜だけのことではない。もう何年も、同じ夜を繰り返している。
そして私は、いつものように心の中で自分なりに言い聞かせる。
――今はもう安心していい、と。
夜という時間は、外の景色を黒く塗りつぶし、室内を柔らかな灯りで満たす。
通りの物音は消え、人の気配も遠のく。
やがて、父が帰ってくる。
いつまで私は恐れ続けなければいけないのだろう。
悪いのは私ではないのに。
夫はすでに眠っている。
明日も朝が早いらしく、帰宅して食事をし、風呂に入れば、あとはほとんど動かない。
私は台所や居間の片付けを終えてから、そっと同じベッドに潜り込む。
隣にいる夫は私のこんな気持ちも知らないままに気持ちよさそうに寝ている。
「・・・知るわけもないか」
眠ろうと努力はする。だが、簡単に寝付ける夜はない。
夫は私の不眠のことを知らない。
薬を隠れて飲むことも、いつかやめなければならないと分かっている。
今夜は試しに薬を使わず、目を閉じてみた――が、やはりだめだった。
瞼の裏に見えるのは暗闇ではない。あの光景だ。
眠らなければ。
夫が早く起きるなら、私はもっと早く起きねばならない。
そんなことは、一時間以上も前から分かっているのに、意識は落ちてくれない。
ただひたすらに時間だけが過ぎていく。
私は夫を起こさないようにそっとベッドを抜け出す。
そして簡単に着替えてから、溜め込んである仕事を今のうちに片付けようと思った。
私の仕事は書類事務だ。
提出された書類を確認し、より上へと引き継ぐ。
自分が一から作ることもあれば、完璧ならそのまま手をつけずに出すこともある。
夫は「家事に支障が出ない範囲で」と条件付きで在宅仕事を認めてくれた。
だが最近は私の帰宅が遅く、娘の食事を夫に任せることさえある。
文句ひとつ言わぬ夫に、申し訳なさが募る。
娘にも、我慢を強いているのだろう。
私の娘――レイの寝つきはいい方だ。
一度寝たら朝まで起きてくることはない。
昔はそうでもなかったのだが、成長が原因なのだろうか。
ふと、顔が見たくなり、レイの部屋へ向かった。
寝室の向かい、廊下を数歩歩くだけだ。
レイは私に似て、散らかった部屋が我慢ならないらしい。
十歳にしていつも整頓されていて、私はその几帳面さを褒めてきた。
部屋に入り、ベッドへ視線を送る。
だが、そこにレイはいなかった。
きれいに整えられた毛布だけがある。
「レイ?」
暗いからよく見えなかったのだと思い、だんだんと近づいていくが娘の姿はない。
目が暗闇に慣れていないから?
だがいつもベッドの端に置いてあるレイのお気に入りのぬいぐるみははっきりと見える。
そこには娘の姿だけが見えない。
毛布で隠れたのかもしれない。
そう思い、一息にめくる。
―――いない。
「なんで・・」
胸の奥が冷える。
一体どこへ?
トイレかもしれない。
焦る気持ちを抑え、廊下を出る。
だがトイレには電気と鍵はついていなかった。
なら外?
いや玄関の鍵はレイの身長ではまだ届かないはずだ。
大声でレイの名前を呼ぶが返事がくる事はない。
声が震え、大量の汗が背中から湧き出る。
私は確かに3、4時間前にしっかり寝かしつけたはずだ。
その後すぐに私もベッドへと入り、目を瞑った。
眠れずに意識はあったのでその間に物音がすれば気づくはずだ。
部屋中を探してもレイの姿はない。
私の声で起きたのか夫が部屋から出てくる。
「・・・どうした?」
少し声にめんどくさそうな響きが混じっているがそんなことを気にしている余裕はない。
「・・レイがいないの」
夫は寝室とトイレを確認し、すぐに部屋を探し回る。
二人でリビングに行き、明かりをつける。
暗い場所に潜んでいるはずもないと分かっていながら、部屋をひとつずつ開けていく。
玄関は施錠されたままだ。
つまり、まだ家の中にいるはず。
少しの希望と押しつぶされるような焦りが心を支配する中、あらゆる可能性を考え探す。
そして――朝。
夫がレイの部屋に戻り整った毛布の中で、すやすや眠るレイを見つけた。
まるで何事もなかったかのように。
*