7話
アリシアは記憶力が良かった。特に侯爵邸に来たばかりの頃、義母の罵倒や食事、メイドの対応に衝撃を受けたこともあり彼女達の言動を一言一句違わず覚えていた。包み隠さず教えるとシャルロットの顔は青ざめ、ロイは不快そうに顔を歪めルーカスに至っては無表情で目が据わっている。
(当事者の私より怒ってるし悲しんでるわ)
シャルロットはアリシアの達観した態度に思うところがあるのか、肩に手を置いてこう言い聞かせる。
「アリシアさんは自分は傷ついていないと思ってるかもしれないけど、そんなことないわ。自分は平気だって、このくらいなんともないと言い聞かせているだけで、受けた傷や痛みはちゃんと残ってるの。アリシアさんが受けた仕打ちを仕方のないことだと受け入れてしまったら、あなたの心は知らないうちにどんどん死んでいくのよ。いずれどんなに酷いことをされても、何も感じなくなってしまうわ。アリシアさんは怒って良いの…『あなたは父親としての責任を果たしてません、世間一般にはろくでなしのクズに分類されますよ』くらい言ってもバチは当たりません、寧ろ緩いくらいだわ」
(ろくでなし…クズ…?)
聞き間違いだろうか、シャルロットの口から出るはずのない言葉が放たれた気がする。パチパチと目を瞬き怪訝な顔をするアリシアにシャルロットはニッコリと笑った。大きく息を吐いたルーカスがアリシアに耳打ちしてくる。
「母上はな、口がすこぶる悪いんだ。勿論外では猫かぶってるんだが、身内だけだと毒を吐きまくる」
優雅に微笑み、怒った姿を想像も出来ないお淑やかな人が…?アリシアはルーカスに言われた内容が理解出来ず、思わずシャルロットの顔を凝視した。するとシャルロットはハッとして、形の整った眉毛と目尻を下げ口元に手をやった。
「ごめんなさい、貴女のお父様のことをクズだなんて…気を悪くしたわよね?」
どうやらアリシアがシャルロットの言葉を受けて、怒っていると勘違いしたようだ。アリシアは首を横に振った。
「いいえ、全く。私も父に対しては、常々そう思っていたので。…父は私やあの人達にとっても、人として褒められない振る舞いをしてきましたから。控えめに言ってもクズです」
平然と言い放ったアリシアに一瞬固まると、ルーカスが耐えきれないとばかりに吹き出した。息子の突然の無作法な行為にシャルロットが嗜める。
「なんです当然笑うなんて、失礼じゃない」
「だってコイツ、割とはっきり言うから」
「コイツって言うのは止めなさい、仲良くもない相手に言われても腹が立つだけよ」
「…一々細かいです」
「あなたが粗暴だからでしょう。若いうちは持て囃されていても、成長してからもそのままなら苦労することになるわよ。好き好んで、尊大で口の悪い男の元に嫁ぎたいと言う人は居ません」
「その頃にはマシになってます」
「いいえ、断言します。あなたは大人になってもこんな感じです」
親子で何やら話し合いを始めてしまった2人を、間に挟まれたアリシアは何とも言えない気持ちで交互に見ていた。
アリシアは2人の間にある、親子としての絆というものを垣間見た気がした。遠慮することなく、言いたいことを言い合えるというのは簡単そうに見えて、そうじゃない。かつてのアリシアと母がそうだった。
母はアリシアが侯爵に懐かないことに心を痛めていた。母からしたら実の父親とは仲良くして欲しかったのだろうが、それを言うわけにもいかず当たり障りのない言葉でアリシアを説得するほかなかったのだ。そしてアリシアは侯爵が来ると母が彼ばかりに構い、アリシアに見せる事のない色んな顔を見せてることに嫉妬して彼から距離を置いた。
…母には遂に打ち明けることはなかったが、侯爵はアリシアが部屋に籠ったりマリエと出かける時、ほのかに顔を綻ばせて安堵していた。アリシアの機嫌が悪く、殊更彼にキツく当たった時は自分と似た紫紺の瞳に薄らと憎しみ、怒りが宿っているのを見逃さなかった。それでより一層彼との関わりを避けたところがある。
多分彼は母に会いに来てきただけで、アリシアに会うのはついで。実の娘なのに懐かない、寧ろ敵意すら抱いているアリシアを快くは思って居なかった。家族になろうと手を差し伸べた時も、彼の瞳には何の感情も宿ってなくて薄寒さすら覚えた。彼がアリシアを引き取ったのは、母が頼んだから、ただそれだけ。それでもアリシアには彼の手を取る以外の選択肢は残されていなかった。
衣食住を保証し、教育を受けさせ時折顔を見せるだけ。表面上は家族の体を成しているだけで、蓋を開ければ空っぽで歪なもの。
仮に母に侯爵を良く思えない理由を話したところで、今自分の置かれてる状況は変わらなかっただろう。だとしても、2人の姿を見ていると母ともっと話すべきだったと言う後悔の念が押し寄せてくる。アリシアが得られなかったものを、当然のように持っているルーカスに羨望の眼差しを向けた。
「…仲がよろしいんですね」
ポツリと放たれたアリシアの呟きにいち早くルーカスが反応する。
「は?何処が?仲良くねぇし、母上は口煩いんだ」
「言ったそばから!口が悪いのどうにかしなさいといつも言ってるでしょう。そんなんじゃアリシアさんに嫌われるわよ」
「え?」
急に自分の名前が出てきてアリシアは驚く。そう思ったのはルーカスも同じようで…いや違う。彼はシャルロットからアリシアの名前が出た瞬間それまでの勢いが消え、急に黙ってしまった。唇を噛み、顔を顰めたかと思ったら銀髪から覗く耳が薄らと赤く…。
「何でコイ…アリシアの名前が出てくるんですか」
なったのを誤魔化すかのように、すぐさまシャルロットに言い返す。鋭くなった碧眼が射抜くようにシャルロットに向けられる。だが、息子の眼差しを気にも留めない彼女は鷹揚に話し出す。
「人に興味を示さないあなたが突然女の子を連れて来たのよ?…つまりそういう」
「違います、質の良い服を着てる痩せてる子供が道の端で蹲っていたから、気になって声をかけただけです。話を聞けば何やら訳ありで、このまま見過ごして何かあったら目覚めが悪いから」
「あなたそんな崇高な人間じゃないでしょう…そうね、今はそう言うことにしておきましょう」
捲し立てるように説明する息子を一瞥しあしらうと、向かいに座るロイに視線を向けた。すっとロイが立ち上がると同時に
「アリシアさんと大事な話があるから、2人は退室してちょうだい」
ルーカスは何か言いたげだったが、儚げながら有無を言わさぬ圧を発するシャルロットを前に言い返すことはせず、促されるまま2人は部屋を出て行った。