1話
アリシアは物心がついた頃から母子家庭だった。厳密には身の回りの世話を焼いてくれるマリエという女性との3人暮らし。王都から遠く離れたとある街外れにある、小さいが比較的新しい綺麗な邸に住んでいた。
母は近所にある花屋で働いていたが、子供ながらに花屋の給料だけでこの邸に住むこともマリエを雇うことも不可能だと何となく理解をしていた。疑問に思い、一度だけ母に尋ねると曖昧な笑みを浮かべ誤魔化されてしまう。ああ、聞いてはいけないことを聞いたのだと悟り、これ以降尋ねる事は辞めた。
アリシアは基本的にマリエと、母が休みの日は母と遊ぶことが多かったが時々「おじさん」が混じることもあった。「おじさん」はアリシアが子供の頃からこの家に遊びに来ていた30代くらいの紳士で数ヶ月に一度、時折月一の頻度で母の元を訪れる。質の良いスーツを見に纏い、靴も常にピカピカに磨かれているものを履いていたので平民ではないのは明らかだった。
「おじさん」と母がどういう関係なのかは分からなかったけど、彼が来ると母はアリシアに見せたことのない笑顔を向け、そして時折悲しそうな顔を見せていた。
アリシアはそんな「おじさん」に嫉妬し、仲良くなろうと歩み寄る彼を拒絶したのだ。母はアリシアを宥めにかかるも、「おじさん」は仕方ない、と言わんばかりに苦笑するだけでしつこくする事はない。その曖昧な態度が更にアリシアを苛立たせ、頑なな態度を取らせ続けた。結局アリシアは彼に心を開く事はなかったのだ。彼が来る時、アリシアは決まって本を読んで彼の存在をひたすら無視していた。
だが、そんな関係が大きく変わる日がやってきた。アリシアが10歳になった時、母が亡くなったのだ。買い物の帰り、階段から足を滑らせて転落した。不幸なことに人通りのない時間帯だったせいで、発見が遅れてしまい診療所に運ばれるも既に手遅れだったという。母が亡くなったと知りアリシアはその場に崩れ落ち、マリエに縋り付いてずっと泣き叫んでいた。
(お母さん…っ、何で私のこと置いていくのっ…)
子供のアリシア1人ではどうすればいいか分からず、途方に暮れていただろう。だがマリエや母の勤め先の花屋の夫婦や近所の人々が手助けをしてくれたおかげで、簡素ながらも母の葬儀を執り行うことが出来た。その際、例の「おじさん」もやって来ていた。かなり急いで来たらしく常に整えられていた髪は崩れ、額には汗をかいていた。そして母の遺体を前に、その場に座り込み静かに泣いていた。静かに、その瞳から滂沱の涙を流していた。
ずっと母との関係が分からなかったが、ここでやっとアリシアは理解した。彼は母のことが好きだったのだろう。しかし見るからに上流階級の彼と平民の母、結ばれる事はないと子供でも分かる。もしかしたら、あの邸も生活費も「おじさん」が与えていたのかもしれない。けど、あまりに憔悴し切った彼に聞く事は叶わなかった。
これから自分はどうなるのだろう、母以外に身内は居ないしマリエだってずっと居てくれるわけではない。子供1人で生きていけるわけがない。突然襲って来る不安にアリシアな心が押しつぶされそうになっていた時。目元を真っ赤に腫らした「おじさん」がその場にしゃがみ込んだ。
「アリシア、少しの間で良いから待っていて欲しい。その時が来たら迎えに来るから、おじさんと一緒に暮らそう」
「?おじさんが私と暮らすの?何で?」
「リディア、君のお母さんから君のことを頼まれていたんだ。自分に何かあった時は面倒を見て欲しい、と。直ぐに連れて行けない事は本当に申し訳ないと思ってるが、信じて待っていてくれ。僕は君と家族になりたい」
アリシアの肩に手を乗せ、真剣な表情で言い募る彼の様子に口を挟むことは出来ず、気づいたら頷いていた。
それからアリシアはマリエと2人であの邸に住んでいる。母との思い出が残る邸に居ると、時々涙を流し眠れない夜もあったがその度にマリエが頭を撫でてくれた。母との別れは辛く、悲しみが癒えるまでは時間がかかりそうだがマリエがいれば耐えられる気がした。
母が亡くなって半年が経った頃、邸の前に大きな馬車が数台止まり、中から「おじさん」が降りてくる。
「迎えに来たよアリシア」
どうやら「その時」がやって来たらしい。いつの間に準備をしていたのか、マリエが纏めた荷物が馬車に運び込まれて行く。
「マリエ、今まで本当にありがとう」
「坊ちゃま、いえ旦那様、そのようなこと。リディア様を守ることが出来ず申し訳ありません…」
「彼女のことは不幸な事故だ、君の責任では…」
「いえ、私があの日買い物に行くのを止めていれば…もう旦那様に仕える資格はありません、本日を持って辞めさせていただきます」
アリシアはギョッとした。当たり前のようにマリエもついて来てくれると思っていたからだ。慌ててマリエにしがみつき、懇願する。
「辞めるって何⁈一緒に来てくれるんじゃないの!」
マリエはアリシアにとってもう1人の母親で、母が亡くなった後は心身ともに支えてくれた大事な人だ。居なくなるなんて考えたこともなかった。マリエは駄々を捏ねるアリシアに今にも泣きそうな顔で笑いかける。
「私はリディア様を守るという、旦那様から与えられた使命を果たすことが出来ませんでした。そんな私はアリシア様の側にいる資格もないのです。離れていても、アリシア様の幸せを祈っております。これからは旦那様がアリシア様の『家族』になってくださいますから、何も心配する事はありませんよ」
アリシアは母が居なくなった時と同じ勢いでわんわん泣いたが、マリエはそんなアリシアをギュッと抱き締めるだけで「辞める」ことは撤回する事はなく、やがて強引に馬車に乗せられることになる。最後までヤダヤダと抵抗するも、やがてマリエと共に行く事は叶わないと悟り大人しくなった。
馬車に揺られて暫く経った頃、『おじさん』が唐突に告げた。
「実は僕は、アリシアの父親なんだ」
衝撃の事実だったのだろうが、アリシアはそれほど驚かなかった。母が彼に向ける視線も、母が邸や生活にかかるお金に関して言葉を濁したことも、葬儀であれ程悲しんでいた事も腑に落ちた。そして何より、彼の紫紺の瞳はアリシアの瞳の色と良く似ていたのだ。青みがかった黒髪と顔立ちは母、瞳の色は父から受け継いだようだ。
彼…父親の本名はクラウス・ロンヴァート侯爵。妻とアリシアより年上の息子が1人いるという。近所に住むおばさん達の下世話な話を盗み聞きする機会があったので、母が愛人という立場にいたというのもすぐに理解した。母をそんな日陰の立場に追いやった自称父親に嫌悪感を抱いたが、彼が自分の庇護者だと分かっていたから黙って話に耳を傾ける。
「リディアは学生時代の後輩でね、生徒会に所属していてすぐに仲良くなって、好きになるまで時間はかからなかった。けど彼女の実家は没落寸前の男爵家。両親から彼女との仲を猛反対されて、卒業してリディアとは泣く泣く別れたんだ」
その後、母の両親が事故死した事で立ち行かなくなった男爵家は呆気なく没落。頼れる身寄りのない母は必死で生きるために働いていた時、別れて以来会っていなかった父が母に手を差し伸べた。当時彼は親の決めた婚約者と結婚していたが、本気で愛していた母に何もしない選択肢はなかったと語る。
引き裂かれた2人の仲が再燃するまで時間はかからず、やがて母はアリシアを妊娠した。父は直ぐにでもアリシア達を侯爵家に迎え入れたかったが、前侯爵、アリシアの祖父にあたる人物が存命だったため叶わなかった。
「父は自分に逆らう者には容赦が無い。僕が別れたリディアとこっそり会っていて、アリシアが生まれたなんて知ったら確実に始末しに来る。そういう人なんだ」
悔しさを滲ませた父は祖父に逆らえず、ずっと母を迎えに来れなかったことを後悔していた。家督を譲っているとはいえ、その影響力は健在。侯爵家に連れて行ってもすぐさま彼に連絡が行き、アリシアとリディアは「病死」させられていたかもしれない。アリシアは会ったこともない祖父に恐怖心を覚える。
「父はずっと病気を患っていて、ついこの間亡くなったんだ。もっと早くに逝っていればリディアも連れて来ることが出来たのに…」
実の父親が死んだのに全く悲しそうではなく、寧ろせいせいしたと言わんばかりの言い草。母が日陰の身に甘んじた原因である、顔も知らない祖父だが父の態度には一瞬不信感が芽生える。
しかし、やはりそれを口にする事は避けて黙ったまま、過去を思い出し時に陶酔しているように語り続ける自称父親を冷めた目で見ていた。
アリシアはふと思う。先程彼は妻と息子、自分にとって義母と異母兄が居ると。彼と暮らすということはつまり、その2人とも暮らすことだ。果たして彼女達はアリシアのことをどう思っているのだろうか。クラウスがそれについて何も言及しない時点で、アリシアの生活が決して良いものにならない事は決まっていたのかもしれない。