夢のなかに置き去りにして
またしても天地が崩壊するのかと思われるほどの出来事に息を呑んだアイシャ。だというのに、恐ろしさや危機感はなく、静まり返った空間にはただただ時計の音が聞こえる。
秒針がすすみ、大きな音とともに分針がひとつ動いた。
どこで鳴っているのかとはアイシャも思わなかった。探す必要もない。
壊れているのか、それともそういう造りなのか、不規則な音を刻む時計らしきものは、遥か上空より降り注いだ石柱により磔にされたオユンの腹に埋め込まれていたのだから。
「あれっ、ミラちゃんはっ」
「彼女らには席を外してもらったよ。ここからは僕たちだけの話だからね」
「えっと──じゃあ私も?」
「君は当事者だからね。しばらくは残ってもらう必要がある」
「当事者って、私は何も──」
「仕留めたじゃないか、現世にあだなす魂の残滓を」
「なにそれ、知らない」
「あの日、君だけはその存在に気づいて確かに消し飛ばしたはずだよ。その全力でもって」
時計の内部もしっかりとあるのだろう。時が進むたびに埋め込まれた時計と腹の隙間から赤いものが滲み出て体を伝い流れていく。
見るからに処刑くさい残酷な処置に、アイシャは目を背けるようにミラのことを口にしてお暇しようと考えたがそうもいかないらしい。
影の人物によれば、この趣味の悪い催しのきっかけにはアイシャがしっかりと関わっている話らしいが、しかしオユンの世界のことであればそれはアイシャに限らないだろう。
あの日、と言うからには過去のことだろうが、平穏を望む少女アイシャはその意に反して全力戦闘を余儀なくされたことは何度もある。
古くは銀ぎつねからはじまり、マンティコアの息子も、大鬼や魚マンでさえ、苦戦したかどうかはさておいて全て本気の心構えと一撃をもって沈めてきた。
こと戦闘において、年相応の少女が花を摘むような、あるいはお母さんのおつかいをするような気楽さで挑んだことはない。
銀ぎつねを呼び寄せる囮だって自身の特性を活かして全力のお昼寝をかましていたと自負している。
周りの目にどう映っているかは別として、アイシャの全力がどの方向を向いているにしろ、彼女は手抜きはしていないと豪語するだろう。
だからこそ、いつの話か分からず頭を悩ませるアイシャだったが、オユンの腹に埋め込まれた古めかしい時計がまたしてもその針を進めたとき、疑問への答えを示すかのようにして辺りの景色が一変する。
スライドを切り替えたようにしてがらりと変わった風景は、呑気なアイシャをして忘れもしないあの壊滅したシャハルの街だった。
地龍が退場して、砕けた山がその形を戻していくなか、全ては終えたはずの戦場の隅でアイシャはひとり、ソレに立ち向かっていた。
いや、正確にはひとりと2体の魔物。並の存在であるところを脱して超越者とでもいうべきステージに至った魔物たちが不敵に笑うなかで、アイシャは自らの手で、いや、脚で決着をつけていた。
地面に蠢く火の玉のような紫の物体。
アイシャは確かに魔力を最大に込めた一撃で物言わぬ不吉を打ち滅ぼしていたのだ。
当時はそれが何か分からなかったアイシャだが、さっきの茶番を見た今ならようやくわかる。そして、だからこそ当事者と言われた理由も。
「あれも、スライム──魂だったっての?」
「そう。ただし、オユンがこれまでさらって捕食しコレクションしてきた魂たちの集合体。怒りや悲しみ、理不尽への嘆きに現世への未練。そういった負の感情に支配されて染まった魂を煮詰めたものだ」
シャハル襲撃の折り、マンティコアと狐の亜神が此度の元凶だと告げた尋常ならざるもの。アイシャは知らず知らずのうちに裸の魂と出会い、もてる全力で滅ぼしていた。
カチリ、と。またしても時計の腹がオユンの腹で音を立てると、今度は目まぐるしく景色が変わり続けていく。
いずれもどこか見覚えのあるシーンは、しかし知っているわけでも出演しているわけでもないが、似たようなものを経験しているからこその既視感。
その視点が誰のものかといえば恐らくはオユン本体のものなのだろう。
アイシャたちが最初に出会い、世界がその天地をひっくり返してなお相手取ることになった分体とでもいうべき小さな体のオユンを監視するような第三者の視点。
数えきれないほどの人物を次々と知らない土地で攫い、惑わせ、弄ぶ光景。
その結末はいずれも、無念というよりほかないものだった。つまり、攫われた魂はそのほぼ全てが最後には遊びに満足したか飽きたかしたオユンの腹の中に収まってしまっていた。
「ちょ、いたずらってあんなことやこんなことまで!」
「……」
「うわ、これなんか丸見えじゃないのさ。えぇー、そんなことになる⁉︎」
「もっとシリアスな感想が欲しいとこだったんだけど……。まあ、ダイジェストにしても多すぎるこの数は、なにも人間族ばかりじゃなく種族に関わらず大勢の犠牲者を出したことの証左だね。全部をまともに見ていたら気がどうにかなってしまうだろう」
「……これって、その時計が?」
「そう。僕も使うのは初めてのものだけど──」
磔にされたオユンの腹に埋め込まれた時計は、時の流れに逆らうようにして不規則にその針を回していく。カチカチと、ギリギリと、ブチブチグチャグチャと時計だけのものじゃない音と漏出物を撒き散らしながら。
「コレに名前はない。こちらの知りたいと思ったことに該当する記憶を過去に遡って映し出してくれる──そう、ここだ。この記憶、この行い……」
影の人物の意思と連動しているのだろう。いくつもの場面を切り替えて来たオユンの記憶だという映像が動きを止めたところで、時計の針もぴたりと止まった。
そこにあったのは、これまでのような人間族や魔族とは別の生き物を捕食する場面。
ただ、食べるというには少し奇妙な光景は、弱った体に見える魂を端から飲み込むようなもので、オユンよりもずっと大きな魂が口内に取り込まれていく様子は、見ようによってはマジックショーのようでもある。
「一角馬の、亜神を食べたんだね」
『グヌ……』
影の人物が探していたであろう記憶は、たしかに額に大きな角を生やした馬を、弱り果てて動かなくなった巨馬を脚から丸呑みにするオユンの記憶であった。
「亜神を食べたって……」
「その通りだよ。君たちの世界では圧倒的な強者であるところの亜神さえ、こいつにかかれば滋味に富んだ食料となりえる。それほどに、肉体に依存する君たちがいったん向こうの世界に引き込まれれば、魂だけの状態というのは無防備極まりないんだ。だから欲するのさ。逆にスライムとして君たちの世界に現れた魂は、より確かな存在となるため、肉を求める」
空いっぱいに映し出される映像のなかで、亜神格の魔物を飲み込んだオユンが不敵に微笑む。
「亜神の魂はさぞかしこいつの腹を満たしたことだろう。肉体に宿るものを生命力というなら、魔力は魂にこそ宿る。亜神のそれは君も知っているように桁違いだ。そんなものを取り込んで、こいつが何をしたかはすでに君も知っているとおり」
「全ての、黒幕……?」
「そう。もっとも──こいつに言わせれば、種を蒔いただけと嘯くだろうけども」
影の人物は手にした法典らしきもののページをめくりつつ、アイシャへの説明を淡々と進める。
「君が生きる世界で亜神というのはその土地土地の管理者のようなものでもある。だとしてもステージが違うその存在を打ち倒すことを禁止する理由もない。取って代わるならやればいい。けれどそれは、同じ世界に生きる生き物だけのことなんだ。ましてや、理のちがう世界のチカラで混沌をもたらすことを、僕はよしとしない」
磔にされたままのオユンは何を思っているのか。もともとから醜悪で、今はさらに苦痛に歪んだその顔面から内心を推し量る術をアイシャは持っていない。
「こいつらは別世界から扉を開けてどこにでも現れる。そうして、魔族たちに魂を分け与えたんだ。一角馬の特性や亜神としての膨大な魔力量を取り込んで得たチカラを使ったとんでもないイタズラだ」
「そうしてオユンが魔族たちのなかにたくさんの魔王を生み出した……?」
「魔王と名乗ったのは魔族たちが勝手にしたことだろうけど、概ねその通りだね。こいつが──何を考えていたのか、それを聞かせてもらおうか」
大筋について語り合えた影の人物。処刑か裁判か判然としない舞台はいよいよ被告人を問い質すフェーズへと移行したらしいが、オユンは沈黙したままだ。
「……寝てる?」
「君じゃないんだから。さすがに弱ったこいつの魂も疲弊して意識を保つこともままならないらしい。君たちは運が良かったのかもね」
「どゆこと?」
「君たちが攫われた時にはすでに、こいつは収集し保有していた大量の魔力を魔王乱造のために使い果たしたあとだったからさ」
「あ──」
「亜神を捕食してしまえるような強敵が弱体化していたのは幸運だよ。無事に帰って来れたことも含めて、ね」
危うく、アイシャたちは全滅していてもおかしくはなかった。そうでもなければただの一瞬たりとも抗うことなど出来はしなかったと。
それこそが当然だと言わんばかりの影の人物ではあったが、言葉のうえだけでも安堵しているのがアイシャにも感じられる。
「この先は長くなるから今日のところは解散にしよう」
「え、いいの?」
不意に終わりを告げられた会合にアイシャはやっと解放されることに内心でガッツポーズをしながら確認をすると、影の人物は法典らしきものをめくってやれやれといったポーズをする。
「いいよ。それにカンペも書き換えなきゃだしね」
「カンペ?」
「これだよ」
影の人物から飛び出した、実に場に相応しくないセリフにアイシャも間抜けな声で聞き返してしまう。
「カッコつけるために徹夜で書いてきたのに、ここであいつが寝たらこの続きは変えなきゃだ」
「それってなんか神具とかアーティファクトとかそういうあれじゃないんだ……じゃあそっちの剣は⁉︎」
「これ? これは栞さ。こんな感じに……ほら」
「本に挟むにはデカすぎたでしょ……っ!」
オユンとは違う無害なかわいいイタズラが成功したとばかりにアイシャの反応を楽しんでいるであろう影の人物だが、しかしその表情はあいも変わらずまったく判別のしようもない黒だ。
「──いつか僕を知ることがあれば、見えるようにもなるさ」
「知りたくもないね。変な知り合いはもうたくさんだよ」
「ははっ。じゃあ結果だけはまた知らせるよ」
「それも要らないと言えば要らないんだけど……そうはいかないよね」
「だね。あちこちに誕生した魔王をなかったことには出来ない。それに対して人間たちは対応に追われることだろう。君だけは、君だけでも知っておくべきだ」
それは暗に、また人間族が攻め込まれることを意味しているのか。
「他人に話しても……?」
「その場合、君はひとならざるものと夢の中で世の摂理を説かれた稀有な人物として祀りあげられるだろうね。どの世界でもそういったものを神託だとかいって崇めるものだ。なにせ、君以外の彼女らはここでの出来事を一切覚えてはいないんだから」
「え、だってみんな──」
「みんな、夢の中だからね。目が覚めた頃にはすっかりさっぱり忘れているよ」
「私も忘れさせて?」
「そうは……いや、そのほうがいいのかな。夢のように幻のように消しておいて、事実だけを植え付けておけば……」
「おい、何か悪いこと考えているでしょ」
「なんて人聞きの悪い。全て君のことを想ってのことだよ。きっとこの先あるかどうか分からない“お昼寝神”なんてものになろうという目標しかないだろう怠惰な君に、この先の世界の命運を左右するような使命を心の奥底に、それこそ魂に至上命題のごとく植え付けておけば、僕の仕事も少しは楽になるだろうなあーなんて魂胆は微塵もない」
「漏れてるっ、ダダ漏れだよ! 私はそんなの絶対嫌だからねっ。私はこれからもずっと──」
「ふふふ……さて、どうなるやら」
言いたいことはたくさんあった。やっぱり面倒ごとが増えるんだという予感が現実味を帯びたのを察して抗議するアイシャの意見は聞き入れてくれそうにない影の人物が、親しいひとに挨拶をするように右の手のひらをひらひらとさせる。
左右に、揺れる手のひらの動きの中にきらりと光る筋を目で追っているうちに、アイシャの意識は闇に溶けていった。
影の人物が再三言っていたように、さっきまでの不思議体験はちゃんと夢の中のことだったのだろう。
窓から差す朝陽に目を覚ましたアイシャは、魂だけの夢の世界のことをすっかりと忘れ去っていたが、枕元に置かれた指輪を見つけて何故だかそれを自分のものとしてそっと右の中指にはめた。