花繭の姫
その背中に見覚えはなかった。なぜならあの時は服を着ていたから。
その横顔に見覚えはなかった。なぜならあの時その人の顔は返り血に塗れて半分も見えなかったから。
でも、その指に見覚えはあった。ルミは胸の鼓動が高鳴るのを抑えることなんてとても出来はしない。
呼び掛けたい、大きな声で。長年の想いを吐き出せる相手はその人でしかないのだから。
それでもルミがそうしなかったのは、そうする暇がなかったから。
凹凸の忙しいシルエットから逞しい肉体を持つ青年だと判別できる。青年はあざけるように突き出した親指にトロルが鼻息を荒げた瞬間を見逃さず、驚異的な瞬発力で接近し跳びあがるとトロルのみぞおちに拳を突き刺していた。
辺りに何かが弾ける音が響く。同時に大地がひきつけを起こしたように震えた。
青年の攻撃は終わらない。鎖骨に手刀を叩き込めば骨の砕ける音が盛大に鳴り響き、胸に蹴りを入れればゴムボールを破裂させたような音が轟く。
サイズの違いすぎる頭で頭突きをくらわせれば、トロルの額は面白いほどに凹んでたまらずに後ろへと倒れ込む。
「尻もち1回、だな」
『ぐぬうああっ』
血の混じったよだれを撒き散らしながらゾンビのように起き上がり襲いくるトロルに青年が再度頭突きをすればまた転がる。
「2回目。何回必要だったんだっけ」
『ぐうっ、どこまでやれるか試してみろ』
「ああ──そのつもりだよ」
そこからは完全なワンサイドゲームであった。亜神の子どもふたりがかりをしても絶対的な脅威だったはずのトロルの化け物が、手も足も出ないどころか、頭すらそこにあることを許されないかのように打ち据えられ、最後には文字通り青年の前にひれ伏す結果となっていた。
「尻もちカウントは──取らなくても良さそうだな」
『お前は、どこから現れたというのだ。誰もお前なぞ呼んではいないというに』
「呼ばれたか呼ばれてないかは関係ないな。始末をつけなきゃいけない事になったから、そうさせてもらっただけだ」
あっさりと、全てを解決した青年は圧倒的な力を誇示することも自惚れさえ感じさせない自然体である。
やるべき事をやっただけ、まさに当たり前のことなのだろう。
「さて、約束通りに彼女たちを帰してくれるんだろうね?」
『──脅しか』
「今さら君を脅したところで何がある。僕は彼女らの約束を守ってもらえるのかなと聞いているだけだ」
『それが出来ないことだと知っていながら……白々しいことだ』
「やっぱり、ね」
よぼとダメージが残っているのか、トロルは手をついて立ちあがろうとするがうまくいかない。ボロボロの指はいくつも失われ、力を込めるほどに瓦解していく。
『お前が出てきたところでこの世界はこの身の世界。お前の理など通用せん』
「いいさ、この先は僕じゃなくても、なるようになるから」
『そのために来たのでは、ないのか?』
「ちがうよ。もちろん彼女らに手を出したこともそうだけど──」
青年は立ち尽くすルミや眠りこけるミドリたちを手だけで指し示し言うが、誰かを見るつもりはないらしい。あくまでもトロルだけを見据えて、咎める。
「君のオイタはバレてるんだぞ」
『──っ』
トロルの耳をわし摑みにして、青年がそうはっきりと告げれば、トロルは赤紫の皮膚を青くして目を見開く。
「確かに違う理に生きる僕らだ。君も好きに生きればいいけれど、だからこそオイタが過ぎれば叩かれるに決まっているじゃないか」
震えて、観念したのかトロルはその目を閉じて体を崩していく。
ぼろぼろと、音を立てて崩れる肉体はやはり土塊となって地面に溶け込んでいく。
「敗因はなんだと思う?」
『魔力を、蓄えてさえいれば──』
崩れた巨人の中で、土塊になることなく残ったのは小さな体のオユンだ。話し口調からして、さっきまでのトロルの巨人と同一人物らしい。
「──もうじき僕らは帰るだろう。その前に変えた魂は戻しておけ」
『……魂の、その在り方は魂のみぞが知る。もはやこの身が指向性を持たせて変えることが出来る範疇にはない』
「そうか、そうだな。致し方ない。僕だってそこに触れることは出来ない。だから手塩に、かけていたんだ」
『……』
ルミたちには聞こえない会話が終わった合図は、青年が改めて振り返る仕草だった。
「あ、あの……あなたは……」
「ん。僕を知らない?」
「い、いえ……きっと知ってるんだけど、それがその、とても信じられなくって」
「僕を知っている?」
半裸の青年と花の精霊ルミとの出会いである。鍛え上げられた肉体は、ルミが思う人物のそれか、想う人物のそれか。
ルミにはそのどちらにも思えて、けどそれだと少し困ったことになるとも考えてしまう。
「だってそれじゃあ、私は──」
今は行方不明の少女の魂が恋敵になってしまうとしたら。主人として認めたくはないけど、それでもいま1番大事な人こそが想いびとだったとしたら。
「ああ──、それは勘違いだ」
「……え?」
ルミの目まぐるしく変わる表情や仕草に何かしら合点がいったらしい青年は、頭をかくしぐさをして苦笑いを浮かべた。これにはルミもどういうことなのかと口を開けて固まってしまう。
「全てを話すことは出来ないけど、今の君の心配ごとをひとつ解決することは出来るよ」
「それって?」
「ほら、そこに」
「……え、ああーっ、なにあれ⁉︎」
はにかむ青年は未だ立ちすくむオユンがいる方ではなく、少し離れた先に落ちている白い物をルミに見せる。
「なにこれ、なにこれ、なにこれえーっ⁉︎」
「繭……じゃあないのかな」
「ええっ、こんなところに何の繭⁉︎」
「まあ、察しがついているから君も驚いてるんだろ?」
「んんん、正解じゃないほうがいい」
「どっちなんだい。正解なら君の不安がひとつ否定されるというのに」
「むぅー」
その繭はどこかで見た、銀色に煌めく糸で作られていて、ちょうど女の子ひとりを包み込めるほどの大きさをしている。
「起こすなら繭の表面を優しくノックすればいいよ」
「────えいっ!」
青年は幼子を起こすように優しくと促すが、ルミにその気は全くないらしく、小さな体の全力で繭を蹴り上げた。
「ほどけていく……」
「そう責めてあげないでよね。きっとあのダンジョンで学んだんだろう。外敵から守る鉄壁の服、それこそ羽化を待つほどの時間だって過ごせるシェルターの作り方を」
繭がほぐれて糸は花のように広がり中のものをさらしていく。銀糸の繭が蓮の花のように広がり切った中には、またしても戦場で惰眠を貪るアイシャの姿があった。
「“花繭のゆりかご”──その防護能力はお墨付き。残念なのは、肉体を守るほどの繭を作るだけの能力は今のところないことかな」
「んもぅーっ、ママ起きて! こんなところで寝てたら恥かくよ!」
「つい本音がでたね」
「あ、風邪引くよだった」
完全防護の繭の中で着ぐるみパジャマを着たアイシャは確かに風邪はひかなくとも恥はかくのだろう。
顔を真っ赤にして涙目のルミに大きな鼻ちょうちんを割られたアイシャは眠い目をこすりながら目覚めていく。
「おはよう……ルミちゃんどしたの?」
「どしたのもこしたのも、ないよ! ママが寝てるうちにどんなことになってたか」
「私が寝てるうちに? あ、ほんとだ、すっきりさっぱりしてる」
「でしょうね! ママの技能のことだからきっと疲れも取れるくらいの効果はあったんだろうけど、ママが寝てる間にこの人がぜーんぶ片付けてくれたんだよっ!」
「全部……?」
「そうっ、あの化け物も倒してくれたんだよこの人が!」
「へぇ、じゃああそこにいるオユンは……?」
「あれが今回の事件の主犯よ。それもこの人が──」
「ルミちゃん、さっきから“この人が”“この人が”って言ってるけど、誰のこと?」
「誰ってそんなのこの人に決まって……え」
目覚めの時を迎えてあくびをしながら満足そうなアイシャは、しかしルミの説明に理解の出来ずに片目を閉じて首を傾げる。
「誰もいないじゃないの」
「え、うそ……ちょっと、どこに……どこに行ったの」
ふっくらとした繭の花弁で目覚めた眠り姫とルミはそこにいるはずの人物をここで再び目にすることはなかった。




