非人道的な粉
商業ギルドに所属するマルシャンは毎日を自宅とギルドの往復で過ごしていた。運動もあまり得意なほうではなく街から出ることもそれほど多くはない。
シャハルが街としての形を失ってからは微力ながらと大工の真似事もして体を動かしたりはしていたものの、スキルポイントを消費してまで手にしたのはわずかな肉体強化だけである。
実家の八百屋を含めて街の金の流れをまとめる部署におり、弟のネシティのように自ら足を伸ばして買い付けに出たりすることもない。
先だって聞かされた弟の話を聞いても、多少の好奇心こそくすぐられはしたものの、危険極まりない現場に参加したい気持ちなどは微塵も顔を出しはしなかった。
ただ今回に関しては噂に聞くドロフォノスの護衛する馬車に同乗し、普段から安全が確保されているルートを通り、少なくとも敵対関係にはないドワーフたちと商いの交渉をしてギルド内でのキャリアを積むためということで同行したはずだった。
「へんくつ魔族だしどうせ成約することもないから案内だけしてテキトーに凌げばいいなんて言ってたのは……うちのギルド長よね。それがどうしてこんな──」
誰もが何かしらの部署に所属して働くのが当たり前と教えられており、まだ歳若いマルシャンのような者たちに高い志などあるはずもなく、当てにしていた戦力がこぞって姿をくらませたあとの馬車にぽつんとひとり取り残されて彼女は自らの不運を嘆いていた。
「それどころかここはどこなのかしら」
ミドリとルミが深刻な顔で話していた馬車がいつのまにか夜よりも暗い闇に包まれたかと思えば、目をしばたいているあいだに明るい昼間になっていたことに頭の中は混乱していたマルシャンがどうにか外の様子を窺えば、山の中にいたはずの馬車は波音静かな浜辺に車輪を取られて放置されており、荷台を曳いていたはずの馬はどこにもいなかった。
全くのひとりぼっち。マルシャンはその事実に発狂するでもなく素直に受け止めて外に降り立つ。
真っ白な砂は足をおろしたマルシャンの靴の中にいくらか入ってしまったが、そんなことはどうでもよかった。
足元にある貝殻や、打ち上げられた魚。砂浜からときおり顔を出すカニに大きなヤシの木。そのどれもがマルシャンが見たことのない種類であり、自分の置かれた状況がますます分からなくなっているからだ。
発狂もしないし、冷静に現実を分析する頭を持つマルシャンだったが、頭の中のそろばんは早々に粉微塵に砕け散っていた。
「ここはどこ、みなさんもどこ……」
結果、彼女は放心して今は動かなくなった馬車の荷台に戻って打ち寄せる波の音を聴きながら誰かが助けに来てくれると信じ待つことにした。
ひざを抱えて座っていたマルシャンがどれだけの時間をそうしていただろうか。外にどんな魔物がいるかも分からないのであれば無闇に出歩くべきではないとじっとしていたマルシャンだが、波音に混じってやがて聞こえてきたのは砂浜を歩く何かの足音。
一歩一歩に力強さよりも繊細さを感じさせる足音は雑な男子たちのものではないだろう。金属製の鎧を着たミラでもないはずで、より身軽なミドリかアイシャ。もしくはドロフォノスに扮するラプシスか。
(お昼寝士の彼女なら精霊さんも一緒のはず。非戦闘職らしいミドリさんでさえなければ、この状況も好転するかしら)
実際には彼女の求めるドロフォノスこそがミドリであり、花の精霊ルミも同行しているのだがマルシャンがそんなことを知るはずもない。
ただ出会うのが誰であれ、見知った相手ならいまの孤独も紛れるというもの。そこまで考えて、マルシャンも当然のことに気づく。
足音の主が必ずしも味方とは限らないということに。
商業ギルド勤めとはいえマルシャンにも動物と魔物の区別はつけれる。端的に言えば目に見えない魔力のある無しで受けるプレッシャーそのものが違う。
先ほど少し見渡した限りでは魔物と思しき脅威を感じなかったことから少しの安堵をしたものだが、状況は刻一刻と変わるものだろう。
シャハル周辺でさえ大小強弱あれど魔物は頻繁に現れるし、たまに街を出るような用事の時は戦闘職の連れを頼っては血生臭い戦闘を身近に触れて護衛の有り難みを感じている。
嫌な想像に身を硬くしたマルシャンではあるが、少しずつ近づいてくる足音にいまのところ不快感はない。同族の魔力というのは敵対関係にでもならない限りは気になることもないし、魔力をほとんど持たない動物ならなおさら。
ただ動物の中でも人間に牙を剥くものもあるが、よほどの油断や不意打ちでもなければマルシャンでも対応出来なくはない。
馬車の荷物の中から緊急用および護身用に載せていたスコップを手にして息を殺して待つ。少しずつ近付いてくる足音を数えるほどにスコップを握る手に力が入るのを感じる。
穏やかな波の音に混じって聞こえていた足音が途絶えたのはマルシャンのすぐそば。おおよそ馬車の後部あたりだが小柄なアイシャやミラでも肩から上は見えなくてはおかしい。けれども未だに姿も見えない。
やがて自然豊かな浜辺で、いつでも振り払えるように構えたスコップを手にマルシャンが見たのは、馬車によじ登ろうとする虎柄の猫の頭と前足だった。
「──なあんだ、驚かせないでよね」
「ナーオ」
この世界でもさほどに珍しくもない猫や犬は人間にもよく懐き家族として飼われていることも少なくはなく、おそらくは野生であろう猫であるがマルシャンの緊張をほぐすのには十分すぎるほど、小さくかよわいものである。
「よしよし、登れないんだね。さあこっちへ──」
オレンジよりの茶色い毛並みと大きな瞳が愛らしい猫を引き寄せるように脇に手を差し入れて抱えて引き寄せたマルシャン。
つかんだ手が沈む毛並みに暖かさはなく、少しの硬さは痩せ細っているのかと、そんな印象を抱いたのもつかの間、引き入れた猫はその胴体から下が枯れ木のような見た目で長さもどう見ても猫のそれとは違い脚は地面に向けてどこまでも続いているかのように長く足先は見えない。
がさがさと乾いた下半身は、あの不気味な妖精にそっくりで、マルシャンは反射的に猫を模した胴体を投げつけて壁に叩きつけると、すかさずスコップを拾い上げて猫の頭をめがけて振り下ろした。
悲鳴とともに叩きつけたスコップは狙い通りに愛らしい猫に見える頭に当たり鈍い音を響かせたが、やはり戦闘職でないマルシャンの力では足りなかったのだろう。せめて刺すように振り下ろせば結果も違ったかもしれないが、スコップで戦う経験などないのだから致し方ない。
それでも目の奥から赤い汁を噴き出した猫の頭と胴体がずるりと抜け出すと、スコップの持ち主を見上げて再び小さく声をあげ、マルシャンの全身に怖気を走らせる。
全身に鳥肌が立つのを感じ、心臓が凍てつくかのような苦しさを覚えたのは見た目のおぞましさか、それとも別のもののせいか。
マルシャンが息を詰まらせて見つめるなかで鳴き声をあげた猫は床に転がった1匹だけではなく、壁にも床にもびっしりと視界を埋め尽くす数の猫の頭部が生えていて、そのどれもが愛らしい見た目で低く鳴いていた。
「ママのところに行くんじゃ?」
「ほら、アイシャちゃんは──自分でどうとでも出来ると思うし」
ミドリは海底洞窟でアイシャの実力の一端を見て知っているしアイシャもそれを分かっている。それでも当たり前に口にするのをためらうくらいには、アイシャが本来の力を秘匿しており公には戦えない非戦闘職を装っていることも知っている。
そんなミドリはルミの誘いに乗って男子たちのところを離れたわけだが行き先はルミの提案とは全く違っており、湖を中心としたカルデラから脱出するようにして小高い山を軽々と越えていた。
「ひとりだけあの周辺では見つけれてないひとがいたのよ。私も少し慌てていたのね……馬車の荷台に載せた私の荷物には万一のために位置を補足するための技能を施しているんだけど、この先にあるみたいだからもしかしたらそこにいるのかも」
「えっと……ミラちゃんかマルシャンさん?」
「マルシャンさんのほうね。そこにいなかったらまた探すことになるけど」
「山の向こうは海になってるんだね」
「砂浜があるから海とは限らないけど……あったわ、私たちの馬車」
「たしかに馬車はあるんだけど……」
「……?」
湖を囲む山はさほどに高くもなく、ミドリは山肌を駆け降りるよりもまばらな木々をテンポ良く飛び移ることで素早く最短距離で見つけた馬車目掛けて渡っていく。
疾風のような速さにルミもそろそろ慣れたようで、着ぐるみパジャマのミドリの胸元に滑り込んで楽をしているが、思いのほか脚が収まり悪くぶらぶらと遊んでいることのほうが気になって仕方ない。
ふたりは会話もそこそこに砂浜に車輪を埋めた馬車のそばに降り立ち、一瞥しただけでミドリは即座に現状を把握した。
馬はそこにはおらず、荷台にあるのは元通りに積まれた荷物。砂から生えるようにして伸びた枯れ木のような存在が荷台の中にまで侵入しており、奇妙なことにその先には猫のような胴体と頭をつけている。
そしてひとりそこにいたのであろうマルシャンは当初の知的なイメージとはちがって、焦点の合わないうつろな瞳、開いた口から垂れたよだれと誰の目にも分かる異常な状態。
先にラプシスが手を下していたのが良かったのだろう。放心したマルシャンを見上げる奇妙なものがイタズラ妖精オユンだと察したミドリもまた躊躇いなくその首をはね飛ばした。
「マルシャンさんっ、大丈夫ですかっ⁉︎」
「あ、うぅ……あう、あぁ」
「全然大丈夫そうじゃないよね。引っ叩いてみる?」
「精神干渉されているみたい。叩いて治るものじゃないよ」
「なら私の出番ねっ」
男子たちのように気を失っているくらいであれば叩けば飛び起きるが、ミドリから見てマルシャンの状態というのは何かしら外部からの作用によって深く侵食されており、肉体への刺激でどうとなるものではないと判断した。
ならばと意気揚々とルミがしたのは、やはりアイシャのストレージから勝手にとりだした赤い粉をマルシャンの口にひと握り突っ込んだだけだ。
見ていただけのミドリが喉にヒリつくような刺激と少しの涙を浮かべる、そんな劇物。
アイシャがお昼寝館跡地で甲獣族のコージアを相手に試作していたうちの残骸であり、アイシャが自滅した悪魔の粉。ルミが丹精込めて育てて粉に加工したそれを“ルミ・ザ・スコヴィル”と名付けて封印した辛さの極致、デスパウダーであり、ミドリの考察など無視してモロに肉体への刺激で攻めただけだ。
果たして内部に劇物を放り込まれたマルシャンは正気を飛び越えて発狂しのたうち回ったわけだが、下手人ルミの献身的な介抱のおかげで無事に一命を取り留めた。
〜あとがき劇場〜
「ねえ、何をしたの?」
「これはママと開発した対魔族用の秘密兵器なのよ」
「すでに不穏な響きしかないけど、人体に影響はないの……よね?」
「ただちに影響することはありませんっ!」
「そんな政治家みたいな答弁されたら不安しかないわよ」
「なんならミドリちゃんもやってみる? 先っちょだけ、舌の先っちょだけだから」
「やめて、なんかいかがわしい」
「もう、ノリが悪いなあ。ママならなんだかんだ言ってペロしてくれるんだけど」
「アイシャちゃんはペロするの⁉︎」
「そうだよ。顔を少し赤くして対抗しつつも、最後には小さな口を開けてペロってしてくれるよ(たぶん)」
「そっか、ペロしちゃうのか」
「うん。そんで、どうだったって聞くと涙目で顔を真っ赤にして『はじめてだった』って言うんだよ(知らんけど)」
「え、え、それから? それから?」
「ミドリちゃん……物は試しで、やってみたら自然と頭に思い浮かぶかもよ?」
「えぇ……でも確かに、百聞は一見にしかずっていうもんね」
「そうそう。じゃあ、ほら。私の手に出したからペロってみて」
「言い方。けど、分かったわ、やってみる」
「どうだった?」
「ごぼごごぼぼばびばぼっ」
「ふんふん『どうもこうもないわよ』ね?」
「ごほっごほっ、なによこの劇物は。ペロした瞬間舌が弾け飛んだかと思ったわ」
「で、ママはどんな顔してたか分かった?」
「ええ──絶対にペロしないってことが」
「正解! さすがのママも対魔族の秘密兵器のつもりで作ってるのに自分で試したりはしないわ!」
「じゃあ何で試したのよ」
「えっと……アルスくんとか、クレールくんとか、クラッヒトさんとか?」
「現代の英雄一家を人体実験に使う人物とかこの世にいてはいけないMADよ」
「ええ。じゃあママの居場所はもう?」
「──その時は私が引き取るわよ」
「ん、ミドリちゃんはいつからこっち側に……?」
「んふふ、何のことかな?」