抱いても固く冷たいだけ
チプカリー大峡谷はカルゴーシュから王都を通り過ぎて少し北に逸れてなだらかな山を進むと見えてくる赤茶けた大地の裂け目をそう呼ぶ。
メイリー率いる国軍が先行する形で進み、あとからついていくアイシャ一行も深い谷間を見下ろせる位置に近づくほどに緊張が高まる。
「不毛の地ってわけでもないんだろうね」
「植生に変化が見られるが、ここで育つ草木も多いしなにより谷を降れば豊富な水量の川があるからな。だからこそ竜もこの下で平和に暮らしてくれているわけだ」
「それなのに卵を壊しに行くんだよね」
触らぬ神に祟りなしとはいうものの、この世界の人間に神を崇める信仰はない。圧倒的な存在である亜神が身近で確実な脅威であることを認識することのほうが印象強いせいで“亜”とつく方を実在するものとして、神と呼ばれるものはただの偶像でしかない。
つまり触らぬ亜神に祟りなしとして喧嘩をけしかける者などいないが、それ未満の脅威に対しては排除出来るならするし予防策を講じれるなら実行するのが人間族たちである。
「竜さんには悪いがな……ここは王都からもそう離れていない場所だ。危険度は下げられるなら下げたいというのが実際のとこだ」
「なぜ人間族はそんなところに王都を構えたのでしょうか」
「人間族の国も今の国軍も治安維持局もそのはじまりは脅威から身を守るためのものだ。たまたま空いていた土地を見つけて領土としたはいいものの、そのど真ん中に竜なんてのを飼ってるんだ。そこに人間族の最大戦力である国軍を擁する王都を配置したんだな」
ベイルの返事に「なるほど」と頷いたフレッチャは前を行く姫騎士メイリーの背中に視線を移す。男女入り混じる国軍の姫騎士隊は6人の小隊を8つ合わせたもので、それだけの人数の命を預かる背中はフレッチャの目に頼もしく、しかし普段の顔を知っているだけにその負担を考えてしまう。
「カチュワたちはどう働けばよいのです?」
「俺もまさか竜相手に槍いっぽんで突貫する勇気はないな……」
「お前たちは竜を相手取る必要はない。それを国軍が担い、隙を見て卵をかっさらう。いくつ転がっているか分からないが、あるだけ全て、だ」
「ママの出番ってわけね」
「そもそも竜って倒せるの? 谷に降りても生きて帰れなかったら元も子もないわけでさ」
以前ならアイシャは戦わないと口で言って振る舞っていても、いざとなればどうにかする覚悟はあった。けれどもいまはそれを成すチカラがない。いつもとは違う本気の懸念である。
「竜を倒した記録は存在しない。国軍がこの人数で戦っても深手を負わせることも出来はしないだろう」
「美味しく食べられる可能性が高いってことよね」
「その時はネシティに頑張ってもらうか、モブニ」
「ああ、戦闘もしない荷運びはアイシャ任せならいちばん囮に向いているよな、モブイチ」
「勘弁してくださいよぉっ⁉︎」
勉強嫌いのアイシャも、ここへくるまでに竜についてはイラストを交えて教えられている。シャハルのギルドの建物並みに大きな体は筋肉の塊で、表面を覆う鱗は並の刃物では傷もつけられず、その顎は岩をも砕く。アイシャの感想は「そんなのに立ち向かうやつは馬鹿でしょ」だった。
「アイシャちゃんたちはカチュワが守るのです」
「俺たちも守られてえな、モブニ」
「ああ、その頼りがいのある肉体に守られてえな、モブイチ」
「カカカ、カチュワは太ってないのですっ!」
少しお腹まわりにお肉の層が見えるだけのカチュワだが、低い背丈に豊満な体つきは縦横の比率のせいで過剰にそう見えてしまうのが本人のコンプレックスで、この頃は特にそれらのワードに敏感になって、なり過ぎている。
年下の女の子の容姿をイジるつもりもないモブリーズが慌ててヨイショしているうちに国軍の歩みは止まり、メイリーが馬車を操るベイルの元にやってくる。
「ベイルさん、この先に谷底に向かう道があって我々はそこを下っていくことになります。お察しのとおり、急な接敵の際の退路はその道のみとなりますので、どうかアイシャちゃんたちとともに少し距離を置いて着いてきて、危ないと判断すれば即座に引き返してください」
「そっ、それでは卵を手に入れることが──」
「命あっての物種だと思いませんか? 商業ギルドからの申し出には毎回応じるわけではなく、今回は“大恩あるベイルさん”の街のことだから他を断ってでも許可しましたが、無理だと判断すれば目標を略取から破壊に切り替えるのはいつもと同じです」
「……すみません」
「ネシティは少し仕事熱心なだけです。許してやってくれないでしょうか」
「ベイルさんがそう言うのでしたら……」
ネシティが姫騎士と直接出会うのはこれが初めてだ。フルプレートの鎧に身を包んだ女性は油断なく周囲を警戒し不用意に近づけば即座に打ちのめされるであろう危うさを放ってはいたものの、ベイルやアイシャたちと言葉を交わす時の表情や口調には優しさや慈しみといったものがあり、それは姫騎士であり、お姫様であると思わせる振る舞いであった。
そんな身内に優しい姫騎士だからこそ、ネシティは少し大胆に口を挟んでしまい、結果として冷たい鉄のような視線と言葉で拒絶され肩を落としてしまった。
「こいつらには俺がついている。しっかり守るし、きっちり逃すさ」
「──っ、はい」
だからそうして気を落とした自分のそばで姫騎士に対して職務上の責任をまっとうする宣言をするベイルの口調が少しくだけたり、それに対しての姫騎士も乙女のようにとろけた表情を漏らしてしまったりと甘いやり取りがなされるのをほんの少し恨めしく思っても、自分が失敗したのだとネシティは甘んじて受け止める。
(商業ギルド長から噂程度にと聞かされたとおり、ベイルさんは姫騎士様と……。その仲をあてにして最近ご無沙汰だった竜の卵を仕入れる計画はいちおう問題なく進んでたのに。はあ、僕って人付き合いが本当に下手だなあ)
人間関係の機微に聡くはないネシティは、そうして反省しながらベイルたちの会話を聞き、竜の卵運搬については当初の予定通りに行われることを確認して胸をなでおろす。
「それとベイルさん、そちらにこちらのかたを混ぜてください。今回本人のたっての希望で連れて来ましたの」
「このかたって──」
姫騎士が隊のほうを向いて手で招き寄せれば、部隊員の中からひときわ小さな人物が現れる。
みなと同じフルプレートメイルに身を包んだ人物はがちゃがちゃと音を立てて出てきたが、少し緊張しているのか足もとの石に気づかずつまずいて転んで──。
「あぶないっ──大丈夫?」
地面にこけてしまう前に助けに出たハルバの腕の中に収まり、消えた。
「えっ⁉︎」
「ハルバくんが人を捧げた⁉︎」
「いや、倒してねえしスキルポイントにも変えてねえっ! けど確かに消えて……」
アイシャも確かに見ていた一部始終だったが、ハルバが助けた人物の姿はそこにはなく。
「アイシャ、私もずっと見ていたわけだけど、どうやったのか……そのひと、アイシャの隣にいるぞ」
「ええっ⁉︎」
前を向いて見ていたアイシャの左側にはフレッチャが立っていて、その観察眼はハルバのもとからいるはずの人物が消えた時点でアイシャの右側に現れた存在を捉えていた。
やはり装飾の少ないいかにも下っぱですと言わんばかりの鎧を着た人物は、音もなく現れ腰掛けてアイシャの顔を見ている。
「はじめまして、お昼寝士のひと。ぼくはミラ──きみと同じ唯一です」
「同じ? あ、でもはじめまして……ミラ、ちゃん」
「──っ」
それはたまたまではあったが、アイシャがベイルやサヤたちの前で“セイジ”として現れたときのように偽った一人称であり、少し違和感のある声音も鎧の中が何者かを明かさないつもりだったからだろう。
しかし同じことをするアイシャだからこそ、すぐに見破り、その上でアイシャセンサーがミラを女の子だとも見抜いていた。
〜あとがき劇場〜
「へっくし!」
「どうしましたか、サヤちゃんっ。風邪ですか?」
「ううん……たぶんウラちゃんアレルギーかも……ちょっと離れてくれる?」
「そんなこと言わないでくださいいっ!」
「うふふ、嘘だよ、うそ。けどなんだろ、鼻がムズムズしてくしゃみが出てくるのよねぇ」
「それはあれですね、花粉っ」
「花粉?」
「毎年このころになると木や花なんかの花粉が舞って、ひとによってはくしゃみや鼻水が止まらなくなるとか」
「えー、私いままでそんなことなかったよ」
「それは突然くるのですっ、そう……まるで恋のように!」
「そんな恋はいやだけど……どうにかならないかなあ……っくしっ!」
「ウラが風で飛ばしてあげますよっ」
「うわあ涼しい……っくし! っくし!」
「なんだか悪化してます?」
「そうみたい。あんまり意味ないのかも」
「そうですか……そういえば王都がある方がもっと花粉が多いらしいですね」
「そなんだー。王都のほうが……それっていまアイシャちゃんがいるところじゃない⁉︎」
「あー、たぶんそうですかね?」
「それは大変っ! ウラちゃん、こうしてはいられない。悪いけどそっちに立って風を送ってちょうだいっ」
「こう、ですか?」
「そうっ! もっと、もっとはげしくっくしっ!」
「ああっ、花粉がサヤちゃんにダイレクトに……」
「いいのっ、アイシャちゃんがこんな辛い目に遭うくらいなら、私が全ての花粉を受け止めてみせっくしっ!」
「そんなこと出来るわけ……」
「休まないでっ、もっと、もっとくしっ!」
「ウラウラウラウラウラあっ!」
「ああっ、花粉のなかに……アイシャちゃんの香りがっくし!」
「そんな馬鹿なこと……」
「ちょっと弱まってる! もっと羽ばたいて! 休まないっくし!」
(これ、ウラの翼がもげるかもしれないです……)
「ああ、アイシャちゃん……私にはこんなことでしか応援出来ないけど、きっと無事で帰ってきてね……」
(これを、アイシャちゃんが戻ってくるまで⁉︎)