何も見てないから
死色の大地に血色の空。黒い三日月は嘲笑するかのようにアイシャたちを見下ろしている。
「エスプリさん、ここは逃げるしか──エスプリさん?」
「きゅー……」
隣を見ればエスプリは泡を吹いて倒れてしまっている。
「ノームちゃんっ」
アイシャが呼びかけるまでもなく、意識を失ったエスプリをノームが魔術の障壁を展開して守る。
『ゲエッゲエッゲエッ』
ふわふわと浮く老婆が滑るようにアイシャに近づいて手の中の大鎌を振るう。
「とんだスローだね。舐めてる?」
散歩気分な老婆の攻撃には当たりようもない。アイシャはすかさず蹴りを放つのだが。
「すり抜けた⁉︎」
『ゲエッゲエッゲエッ。当たらぬ、当たらぬよぉ』
アイシャの蹴りはその体を捉えるも何の抵抗もなく老婆の中を通過した。
「ふぐっ⁉︎ 何これっ!」
老婆を蹴ったアイシャの左脚が膝から下を黒く染めて感覚を失う。
『ゲエッゲエッゲエッ。美味いよ、美味いよぉ』
アイシャとは対照的に老婆はその体をひと回り大きくしている。今はベイルくらいの身長がある。
「なんだか知らないけど触るのはまずいっ」
アイシャはストレージから水鉄砲を取り出して老婆に向けて撃つ。フェルパ用の強力なやつだ。
『おお、おお……冷たいぞぉ、冷たいぞぉ』
「効いて……ないっ」
アイシャが撃った水鉄砲は確かに老婆を貫いたが、穴を穿たれても感想を漏らしただけで老婆はダメージを負ってもないし、どこも濡れてさえない。
『魂、もらうぞお、もらうぞぉ』
目の前の老婆はそう言うと霞のように消えて居なくなる。
「こういう時って後ろなんだよねっ!」
バッと振り向いたアイシャは、やはり後ろに現れていた老婆の鎌を避けて水鉄砲を撃つ。
『おぉ、暖かい、暖かいぞお』
「火もダメ、か」
アイシャが手にしていたのは熊の魔物を屠った火鉄砲。しかしそれはまたしてもダメージを負わせるには至らず老婆の笑いだけが響く。
「なんか、おっきくない?」
老婆はいまベイルがアイシャを肩車したくらいになっている。そんな妙な比較をしてしまうくらいにアイシャは混乱している。
『もっと、もっとくれても良いのだよ、良いのだよ』
「ならっ、これでもくらえ! “ディルア”」
アイシャの左脚は感覚がなく支えることさえ難しい。だからこそ、その左脚で蹴る。グリーブが装着されたのは目で見て分かる。右脚を軸に左脚はももから無理矢理に蹴るつもりでいく。
「このアミュレット“偽りの正義”はっ! 実体のない物にも通じるっ!」
その蹴りはかつてアミュレットをくれた影をも切り裂いている(33話)。
『ゲエッゲエッゲエッ』
しかしその蹴りはまたしても老婆の身体を横断しただけで一切の抵抗を感じることもなく通過した。
『実体はあるよ、あるよ』
「うっそーんっ!」
無理矢理に放った回し蹴りの勢いで地面を転がり、どうにか立ち上がったアイシャは「そんなのズルいっ」などと悪態をつく。
『ゲエッゲエッゲエッ』
「いや、でかっ」
老婆の体長は今やベイルがバラダーを肩車してその上にアイシャまで乗っているくらいのものになっている。
「アイシャちゃんっ、ありったけの攻撃をして!」
呼びかける声にアイシャが振り向けばエスプリが意識を取り戻してアドバイスともいえない事を叫んでいる。
(見られた? いや、あれは──)
そんなエスプリは手で目を覆ってへっぴり腰で叫ぶという何とも妙な振る舞いである。
「何にもっ、何にも見てないからねっ? ノームちゃんがそう言えって、出来れば魔力攻撃がいいなって! ノームちゃんが!」
地の精霊とおしゃべりできないアイシャへと伝える苦肉の策といったところか。そんなエスプリにクスリと笑い、ストレージから武器を取り出す。
「りょーかいっ! 火と水の乱射にどこまで耐えられるかな?」
ジャキっと水鉄砲と火鉄砲を構えてアイシャはひたすらに引き金を引いた。