アルス兄とパジャマ
午前の終わりを告げる鐘が鳴る。
アイシャはなんだかんだこの丘の上にある“お昼寝館”であるところの東屋で1日を過ごしはするものの、昼食はみんなと同じ食堂で食べている。
聖堂裏手は山のすそにあたり、聖堂教育施設と呼ばれる敷地内でお昼寝のある丘へと続く道はむき出しの地面に細い丸太が足場や階段を形成し、その両脇をアイシャの頭より高い生垣が挟んでいる。道幅もアイシャが横に3人は並んで歩けるくらいの幅があり、行きも帰りもゆったり上り下り出来る。
秋にはオレンジの花を咲かせるこの生垣がアイシャは好きで、たまに生垣に埋れてみて花の香りを全身に楽しんでいたりした。そのせいで生垣にはちょうどアイシャサイズの穴がある。
アイシャは食堂に向かう途中にこの生垣の穴に飛び込んで隠れてやり過ごした。階段を下りるアイシャに対し、上がってくる足音は大きく速い。
まだご飯も済ませてないはずの時間にこの道を駆け上がっていく上級生男子。アイシャは上手く隠れられたらしく、目の前を通り過ぎていく男子を黙って見送り、彼が上りきるより先に抜け出して逃げ去る。お昼寝館をそんな風に訪れた男子とは言うまでもなく前日にアイシャが投げ飛ばしたアルス兄である。
こんな便利なものはないと“寝ずの番”を睡眠時に限らず常時発動させっぱなしのアイシャに鳴らされた脳内警報の相手はあの男子で、だんだん近づくにつれ高まる警報は男子の通過に合わせて遠く小さくなっていった。
(パトカーか救急車のサイレンみたい。この場合あれが不審者なんだけど。おまわりさん、あいつです)
「という事があったんだよ」
アイシャは前日の悪ガキたちからそのお兄ちゃんの話までを幼馴染のサヤにグチっている。食堂では多くの生徒が集まり好きにテーブルを囲んでいるが、剣士適性で仲間もたくさんいるであろうサヤは、この時間はいつもアイシャと窓際の2人席である。
「それは災難だったねー」
「さっきもすれ違ったけどあの人は何者なんだろ」
幼馴染の珍しい愚痴を聞きながらサヤはオムライスを嬉しそうに食べている。すでに12歳の女の子ともなれば色恋の話も珍しいものではないが、この幼馴染は寄ってきた男子を投げ捨てて女の子である自分との時間を大切にしてくれているのだ。育んできた時間は互いの友情を確かなものにしてくれている。
アイシャにしても愚痴りはしているけど、実際のところはいつもサヤの語るに任せている感の否めない会話を、たまには自分のネタで始めようという思いつきでしかない。
突然現れてキレ散らかしたかと思ったら血迷った言葉を口にするアルス兄よりは、目の前のエビピラフの方がアイシャの脳内を占めている。けれどそれらは失敗だったのかも知れない。幼馴染もアイシャの相手が誰かなど気にしてないし、アイシャも丘を駆け上った男子の行動の先など考えていなかった。
一階の食堂窓際のこの席からはお昼寝館こそ見えないものの、そこに続く生垣の入り口が見える。
そこにやっと駆け降りてきたであろう男子が手に何かを持っているのをアイシャははっきりと見た。
「アイシャちゃん?」
アイシャはまず窓を開けて外の空気を吸って落ち着く。
「いやー、気のせいだとは思うんだけど」
窓の向こうにその男子の姿を見たと話して「ほんと災難だったねぇ」とサヤからの同情をもらった。ただその手に持っていたものと、お昼どきのアイシャの居場所の選択肢など数えるほどもないことが気がかりで、嫌な予感はちゃんと的中する。
サヤとの食事を楽しむアイシャの意識は、その半分を索敵に割いている。窓から見える風景に見つけた男子はすでにおらず、どこかへと移動をしているはずだ。やがて予想に違わず食堂に入ってきた男子の姿に脳内警報がじわじわとその音量を上げていく。
「ここにいたのか」
男子は食堂に入ってきた瞬間からアイシャをロックオンして真っ直ぐにここまできて声をかける。
周りからは「キャー」などと聴こえてアイシャは(こいつは女子に嫌われる変態なのか?)などと思いながら
「そりゃお昼休みだもの。ご飯食べるよ」
こんな変態に礼儀なんていらないだろう。あえて頬が膨らむくらい詰め込んだ口をもぐもぐさせながら男子を見て返事した。上級生相手に失礼であり、男子を幻滅させるに足る振る舞いだ。
口の周りにピラフをつけたアホの子アイシャは、男子よりもその手に持つものに注意をひかれる。それは見知らぬ男が触れて良いものではないはずのもの。
アイシャがお昼寝タイムに着ることにして陰干ししていた銀ぎつね着ぐるみパジャマが何故か握られていたのだ。さっきより強めの脳内警報の正体はパジャマが奪われる危険だったのかも知れない。
アルス兄はパジャマを持つ手を胸に掲げて、空いた手を差し出してくる。
「俺と! けっこ─」
窓を開けていて良かった。
またも“ぶん投げるアイシャ流背負い投げ”で退場することになったアルス兄は音もなく窓をすり抜けて地面を滑っていった。
(今のサイレンは高速警ら隊の速さね)
アイシャは無事に取り戻したパジャマを両手で広げてご満悦だ。
「アイシャちゃん……さっきの話の人ってクレール先輩のこと?」
「あいつの名前?」
コクコクと頷くサヤ。
「ここで1番強くってみんなの憧れのそのクレール先輩」
強さとは、戦闘職が多いこの聖堂教育で圧倒的に分かりやすいステータス(地位)であり、寝て過ごしたいアイシャがもっとも不要とするステータス(能力)である。
「いやー、先輩がパジャマ拾ったって届けてくれて……何も窓から帰らなくてもいいのにねー」
アイシャはそういうことにした。
読んでくれてありがとうございます!
背負い投げってのは手を離しちゃダメなんだぞ?
投げられるほうも投げるほうもちゃんと安全第一!
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