密談の場が暗くない?
宮廷での朝議は既に終わっている。皇帝の執務室には、極秘中の秘を扱う必要のある重臣しか居ない。警護の騎士すらも、分厚い扉の向こうに遠ざけられている。
ティグリスが部屋に入る。扉の開く瞬間に声が漏れるのを忌避して、部屋の中を静寂が支配する。扉が閉まるまでの間はどんな報告、会議の最中であれ、それを中断し一切声を出してはならない。ティグリスの靴が柔らかい絨毯を踏む音だけが微かに各人の耳に届く。
ティグリスの後ろで扉が閉まる。彼の皇帝に対する最敬礼が終わるまで、誰も声を発しない。皇帝は直前まで報告を行っていた密使を手で遠ざける。禿頭の重臣の背後に、円を描くように密使と重臣達が距離をとり直立不動の姿勢をとった。皇帝は姿勢を正しよく通る声で到着したばかりの家臣に発言を促す。
「此度、卿が帝都に置いている戦力を南西の戦線近くに動かした理由について説明せよ」
皇帝の右筆が、素早く筆を執るのを確認してティグリスは膝をついたまま答える。
「百数十年に渡り行方の分からなくなっていた、当家の分家筋マンマーリア家の末裔を発見した故にございます。我が家の分家の者が零落の末、地元の平民と変わらぬ暮らしを致しておるは我が不徳の故。マンマーリア家当主とその娘を帝都に招き、アニマーリア家分家筋として恥ずかしくない暮らしをさせようと迎えを送りましてございます」取り囲む重臣達からざわめきが起こる。
「御家系に連なるとは真であろうか」「ティグリス殿はなんと情けの深い」「いや、それにしては兵力が過大では」「何かの陰謀なるや」「屹度、身内の身を案じた上でのことだろう」「零落した貴族に今更、帝都暮らしができますやら」「単なる派閥強化の方便では」
皇帝が片手で制すると、ざわめきが納まる。
「ここに、此度の一件についてそなたからの申請書類がある。それによると、親戚を迎えにいくにしては大仰な人数を動かすようだ。今一度、動かした人数について口頭で報告せよ」
「騎士十名に御座います」
「詳細に」
「騎士十名。騎士一名につき従騎士一から三名、従者三から十名、従卒五から二十名、軍馬一から三頭に御座います。加えて従軍司祭一名その従者二名。他に軍医、助手を加えまして。合計で二百名余の後方に輜重を整えて御座います」
「過大ではないか」
皇帝の短い問いは、その場に居合わせる重臣達の疑問を代弁するものだ。小領主である騎士が十名ともなれば一寸した兵力であり、小規模な一軍団といってもいい。ましてやアニマーリア家の動員する騎士には、軍に於いて戦士階級であるという称号として騎士を名乗る上級貴族達も含まれている。
「マンマーリア家邸宅の所在が小国連合レベン国との国境付近にあるため、必要と考えたものであります。加えて身内の迎えという性質上、万全を期すため傭兵が使えません。御理解いただきたく存じます」
二人を囲む重臣のうちで一際体格の大きな男が、一歩進み出て発言の許可を求めた。帝国とレベン国との国境付近に進駐している帝国南西方面軍司令官だ。皇帝は手で許可を与える。
司令官は皇帝に丁重に一礼し、ティグリスに向き直る。
「ご親族の為に斯様な人員と財貨を惜しげもなく投ずる。ティグリス卿の心意気、此度は全く感じ入った次第に御座います。されど、方面軍司令官としては申し上げねばならぬ事が御座います」
「これは、クロコディールス閣下。方面軍の持ち場に余所者に踏み込まれての御不快、察するに余りあります。しかし、此度ばかりは何卒お許しいただきたく」
ティグリスは、司令に丁寧な礼を施す。重臣の中でも特に股肱というべき彼の改まった態度にクロコディールスも、どう礼を返すべきか戸惑う。何度かの礼のやり取りの後、漸く顔を上げたティグリスに武官は勤めて感情を出さぬように告げる。
「いや、他ならぬティグリス卿のこと。何の問題も御座いませぬ。ただ……」
「目的を達成した後であれば、我が手勢でお手伝いできる限り戦線での活動に協力致しますぞ」
「戦力として方面軍は充足しております。ただ御恥ずかしながら、物資の余裕が少ないため貴君の軍勢に協力する余地が少ない状況でありまして」
ティグリスは、微笑んで答えた。
「輜重は充分に用意しております。御心配には及びませぬ」
「とはいえ、場所が国境付近。不測の事態には事欠きません。油断なりませんぞ」
苦い思いがあるのか、クロコディールスの顔が厳しくなる。ティグリスは柔和にそれに応じる。
「長く国境を支えてらっしゃる閣下の金言、有難く頂戴いたします。早速、輜重の警備の者どもを増やして後を追わせましょう」
その言葉に思い当たるものがあったのか、謹厳な武人の言葉がすぐに後を追う。
「失礼ながら、何か……隠されておいでではないですか。矢張りどう考えても、戦力が過大に過ぎる」
どう、答えるべきか。ティグリスはしばしの沈黙の後に答えた。
「密偵からの報告により、知れたことなのですが……小国連合の兵に村が襲撃され、マンマーリア家の者達は村民らと共に森に分け入って難を逃れていると。彼らを救助する際に小国連合の兵との戦闘になる可能性も考えての兵力にございます」
「村が襲撃された、と。そのような報告は上がってきておりませんな。確認いたしましょう。現地のものが連絡を怠っていたならば、捨て置けん」
「いえ。現場の兵士達にとって、この程度は日常的な小競り合いにしか見えないでしょう。小規模の襲撃の報告などは後回しになるのも頷けるというもの。しかし、ただの小競り合いと見せる為の工作とともに、マンマーリア家の者を襲ったと考えるなら……小国連合側の作為を感じます。マンマーリア家もアニマーリア家に連なる家とはいえ、私にも見つからないように現地にずいぶん溶け込んでいたようですから。これを見分けてこの時期に襲撃とは。決して偶然ではありますまい」
ティグリスは、周囲を見回し両手を広げて続ける。
「小国連合が何をたくらんでいるかは分かりません。しかし、小さくはアニマーリア家の誇りのために親族を保護する。大きくは、帝国と陛下の御為に小国連合の企みを挫くべく行動を開始致しました。このような経緯にございます」
クロコディールスは、指で眉間を揉み解しながら暫くうめき声を発する。暫くの思案の後に疑問を発した。
「此度、このようにお聞きしなければ私の知らぬ間に戦線を刺激することになったのではありませんか?」
「陛下には既に御裁可を頂いております。間をおかず、状況についての詳細はお手元に届く手はずにございました、そして……」
議論の場に、澄んだ音が一つ響く。皇帝が佩いている短刀の柄を弾いた音だ。議論を行っていたものも、側で聞いていたものも、書類を確認していたものも、任務のために退出しようとしていたものもその場で姿勢を正して沈黙する。皇帝の澄んだ声だけが沈黙を破る。
「このたびの計画は、アニマーリア家に起きた一事変を利用して小国連合を圧迫するもの。しかし、そのための行動は各方面軍とその司令官の面目に関わる。それ故、私から指示を出すつもりであった。しかし、ティグリスが自ら事情説明を行うことによって責を果たしたいとのこと。それ故に、この機密の場に来させたのだ」
クロコディールスは、ちらとティグリスの顔に目をやる。ティグリスは、口を真一文字に結んで皇帝へと眼差しを注いでいる。
皇帝は、さらに言葉を続ける
「ここまでは、現状の確認。この先は、違背の許されぬ勅命だ」
帝国を統べる鋭い視線が、国家運営に関わる幹部達を見渡す。
「まずは、南西方面軍指令クロコディールス。帝国臣民及び帝国重臣アニマーリア公爵家の遠戚たるマンマーリア家のものにに危害を加えた非を鳴らしてレベン国に圧力をかけよ。その際にアニマーリア家の騎士を先頭に立たせて大義を明らかとすべし。方面軍指令が先鋒を帝都の文官に譲るのは面目にも関わろうが今回は目をつぶれ」
クロコディールスとティグリスは、同時に最敬礼を行う。
「ついで、北西方面軍司令官セルペンス。当面の間アニマ国への攻撃を停止せよ。勇猛で知られた汝には歯痒いであろうが、それ故に効果がある」
小さな体に、貴族にしては簡素な衣服を身につけた男が群臣の内から一歩前に進み出で、最敬礼を行う。
「最後にティグリスにはもう一つ、このたびの行動に必要な要素がある。南西部レベン国に圧力をかけ北西部アニマ国への圧力を減じるこの状況下において、アニマ王家に繋ぎを送れ。極秘だ」
「お言葉ですが陛下。アニマーリア家とアニマ王家が一つの家から別れ敵対したのは帝国草創期のこと。そう簡単には……」
「繋ぎを送った事実が重要だ。送る内容は当たり障りのないもので宜しい。ただし極力秘密裏に。よいな『極力』だ」
こうまで言われティグリスも理解する。
「直ちに、アニマ王家に『極力秘密裏』にて繋ぎを送ります。お任せください」
皇帝が王笏を振り上げる。
「では、行動を開始せよ」
群臣たちは一斉に礼を行い答える。
「ウィタエ帝国を統べる女帝陛下の御為に」