無能な王太子に用はない
王太子はそのシーラに、この瞬間、恋に落ちたのだ。
彼女の強い意志を秘めた瞳に。
芯の通った考え方に。
自信に満ちた彼女の――全てに。
その様子に、怒り狂うシーラ以外の人間は気が付いた。
「権力ばかりを持つ、使えない王妃に仕える気はありません。この国を想うならば、私が王妃になるべきだと思ったから、学んできたのです」
結婚適齢期だと言う三年間を費やしてね!
吐き捨てるように言ったシーラに、王太子は微笑んだ。先ほどとは違う、甘さを含んだ微笑み。
―――だったのだが。
「だけど、無能な王太子の妃なんて、こっちから願い下げだわ!」
ハッピ―エンドにつなぐはずだった空気が固まった。
そう言い捨てて引き上げようとするシーラの腕を掴んだのは、伯爵だった。
「待て待て」
グラントリ伯爵の手を振り払ってシーラは言う。
「気分が悪いので失礼させていただきます。慰謝料の話はまた後日仲介人を立てますわ」
「そうじゃなくて、殿下の言葉を……」
今から別の流れになるはずだから。その言葉を胸に収めたまま娘を引き留めるが、怒り狂った娘には通じなかった。
「今更私の態度が不敬だと気にしてらっしゃるのですか?」
さっきは連れて帰ろうとした伯爵が呼び止めようとする理由を、明後日の方に解釈したシーラが、はんと鼻で笑う。
「突然婚約破棄されて、親から勘当された令嬢に、さらに不敬罪なんて罪を被せるならば、被せてみればいいのです。国民はどう思うか……」
「違うから。落ち着きなさい」
段々と声が大きくなっていくシーラに、伯爵は宥めるように肩を叩いた。
シーラはこの突然変わってしまった空気に首を傾げながら、王太子を見上げて言う。
「私は今から拒否された無価値な女となるのです。慰謝料はしっかりといただきますが」
生活のためだから、どれだけ腹が立とうが慰謝料の話はしないといけない。
シーラが王太子を睨み付けると、何を思ったか、王太子がシーラに近づいてきた。
「シーラ」
しかも、ファーストネームを呼び捨てだ。
今まで「レディ」としか呼びかけられたことは無いと思うのだが。
多分、どの婚約者候補も、○○伯爵家令嬢としか認識をされていなかった。名前さえ覚えられていなかったのではないかと思う。
親しげに呼ばれても、今更だ。
グラントリ伯爵が娘から一歩離れると、その場に入れ替わって王太子が立つ。
訝し気に王太子を見つめるシーラにさえ、彼は面白いというように目を細める。
そして、シーラに近づいて、両手を握った―――
「気安く触らないでください」
が、軽く振り払われた。
振り払われながらも、王太子はめげずに言った。
「婚約を承諾しよう」
王と宰相がほっと息を吐く中、シーラは訝しげに目を細め、首を振った。
「今更、無能であると証明された王子には用はありません」
ばったりと倒れた伯爵を尻目に、シーラはきっぱりと告げた。
「結婚した途端、本物の愛を見つけたなどと戯言を抜かして、別の女に走ります」
笑顔のまま固まる王太子に、シーラは辛らつな言葉を投げかけていく。
「浮気で済めばいいものを、後宮に迎え入れるなどと言い始めるに決まっています。そして始まる後継者争い。それを治めることもできず右往左往する当事者。私は国を荒らす原因になる気はないのです」
腕を体の前で組んで胸を張るシーラに、王太子は目を輝かせた。
逆に、シーラは王太子の反応に一歩下がった。
怒り狂うと思っていたのだ。それが喜ばれたようで、何故か分からない。
引いたシーラを追い詰めるように、王太子は一歩足を進める。
「素晴らしい。まさに理想だ」
――誰がだ。どこがだ。
突っ込もうかと思ったが、王太子の表情に口をつぐんだ。
甘く微笑んでいるだけかと思ったら、その視線が肉食獣のそれに見えたのだ。
どういう思考回路をしているのか読めない。
近くで話したことなど数えるほどだが、その時は当たり障りなく『王子様』だった彼に、シーラは特に何の感情も抱いてはいなかった。
だが、今の彼は――
さっきまでの、どこか面倒くさそうな表情が消えて、獰猛な獲物を狙う視線に、シーラはひるんだ。
「こんな理想の女性を隠しているだなんて」
王太子は、煌びやかな顔で笑った。
―――よし、逃げよう。