滅びを我らに―透明で不透明なぼく―
全てのものは死んでゆく。
産み出されたものは壊れることによってのみ完成する。
ぼくらはずっと滅びに向かって一直線だ。
人間は傷つけあう。なぜならば自己の存在を確かめるためには他者を介さなくてはならず、他者に触れることはそのそれに対して何と名付けようとも「攻撃」である。
愛することも傷つけることも同じことなんだ。
この事に「快/不快」以上の複雑な感情を持ってしまったぼくらは、「攻撃」に対して様々な反応を起こすようになってしまった。
だから「こころ」という、体のどこにもない場所が痛む。どこにもない場所だからこそ、傷の有無でぼくらは意見を戦わせ、結果としてさらに傷を増やしていく。
ああ、なぜ争うのか。
ぼくらは己の命を永らえるために、寂しさを紛れさせるために寄り集まったというのに、そのせいで「こころ」を痛めて自壊していく。
体のどこにもない場所だから、取り替えることすら出来やしない。
「攻撃」に倦んだぼくらは、種の本能に逆らって孤独になっていく。それはつまり愛しかたすら忘れ去るという事なのに。
忘却の彼方の未来では、きっとぼくらは数を減らしている。太陽が死を迎えるときに、ぼくらも皆眠りにつく。それは絶対的で不可避な「完成」だ。
ならば、ぼくらが傷つけたくない/傷つきたくないために規模を縮小していくのは正しいのだろうか。
でもぼくらは孤独に耐えられるのか?
他者を介さなくては存在を確かめられないぼくらは?
そもそも「ぼくら」なんてものは「こころ」とおなじくらいどこにもないものなんだ。だって誰かの「こころ」をそのまま全て丸ごと感じることなんて出来ないから。どうしてそれに気づかない/気づけない?
怖い。
ぼくは一人でここに立っている。
ぼくは透明でありたい。誰も傷つけたくない。
けれど孤独に耐えきれず「誰か」を「あなた」を求める。そのときぼくは不透明だ。
ああ、滅びを我らに。
滅びを、「我ら」に。
いつか終わりが来るのなら、ぼくは「あなた」のそばで眠りたい。
ぼくの「攻撃」が「あなた」にとって「快」であれば良いと願いながらぼくは滅びへの刻を過ごす。ぼくが「完成」される時、「あなた」が涙を流してくれたら。
そうしたらぼくが傷ついてきたことも無駄ではなかったと。生きてきた意味があったのだと。そう思えるのだ。