9.
ライラが従僕を辞め、屋敷から去ったのは、それから間もなくのことだった。
その噂はあっという間に広がり、どこに行っても私は愛人を追い出した恐ろしい正妻という目を向けられた。
それは、決して間違ってはいない。だから、何を言われようとも私は黙って耐えた。
あんなに物語の悪役のような存在にはなりたくないと思っていたのに、屋敷から別宅へ愛人を移せと夫に迫ったのだから、本当に笑うしかない。
ライラと使用人達との間に溝が生まれる前に、女主人として私がけじめを着けたのだと言えば聞こえはいいが、人はそんな風にいいようには捉えてくれない。そんなことは分かっていたはずなのに、あの時私はああ言わずにいられなかったのだから仕方がない。
ライラは郊外にブライアンが用意した一軒家で暮らしている。毎日ではないものの、ブライアンはその家を訪ねて、ライラと甘いひと時を過ごしているらしい。
ブライアンは私が起きるよりもずっと早くに朝食を済ませて出掛け、どこかで夕食を済ませて帰ってくる。ライラのいる別宅に入り浸っている訳ではなく、従来の領地経営に加え新規事業や人脈を広げる為に多忙になっているのだ、とロアンから聞いてはいたものの、やはり不安になってしまうのだ。私を避けているのではないか、と。
……あんなことを言わなければ良かったのだろうか。
ふと、そんな思いが脳裏を過る。
本音で話さなければ人は理解し合えない。そう思い、私が思っていたことを伝えたのだったが、その結果、私達の距離は更に開いてしまったようだ。
このまま、ブライアンとライラとの間に子ができたら、きっと彼はその子を後継ぎにする。その子は、母を屋敷から追い出した私を憎むだろう。夫と養子に疎まれて、孤独に死んでいく自分の姿が見えるような気がした。
これが、お邪魔虫の辿る末路ね……。
自分の将来を想像するだけで、身体が冷えていく。
物語だけではなく、貴族社会でも現実に起きる話だった。耳にする度に、私はそんな正妻の立場なんて御免だわ、とずっと思ってきた。
けれど、どうやら私も、可哀想な彼女達と同じ道を辿ることになりそうだ。
ここ数年、他国との主要な交易路だった陸路が騎馬民族によって略奪の温床になり、代わって海路が重要な物流の要となりつつある。これまで貿易港として使われていた港が手狭になり、新たに国の事業として大規模な港が整備されることが正式に決まった。
その場所として選定されたのが、何と、ステイフォート領南部の海岸だった。
宰相閣下はこれが狙いだったのだとようやく分かった。この地が最も有力な候補地であることは、国政の中枢にいる宰相閣下なら知っていて当然だ。
港や貿易の管理は勿論官吏が派遣されるが、港町を整備し巨大な貿易港へと発展させるには領主の協力が不可欠だ。その為に、宰相閣下はブライアンを抱き込む必要があったのだろう。
ルークが、父に任せておけば大丈夫だと言ったのも、このことだったのだ。私が変に気を揉まなくても、ステイフォート領が今後飛躍的に発展することを、彼はすでに察していたのだろう。
これまでもステイフォート領は順調に発展を続けていた。今後は、貿易港の整備によって更に発展していくだろう。
私という存在で繋ぎ止めておかなくても、すでにブライアンは父と共同事業者として切っても切れないほどの関係を構築しつつある。
私の存在意義は、少しずつ薄れてきている。最近、ふとそう感じるようになっていた。
使用人達は、ライラが屋敷を出ても、動揺を見せずに働いてくれている。だが、一人だけ例外がいた。ライラを盲目的に慕っているマリラだ。
彼女はライラが屋敷を出て間もなく、身の回りの世話をするために別宅へ移った。そのことも、ライラを慕っていることで私から邪険にされたのだという噂話として広まった。もしかしたら、マリラ自身がそう吹聴したのかも知れない。ルークからの手土産を喜んで受け取っていたくせに、何とも現金な女だ。呆れる一方で、何とも人間臭いとおかしくさえ思える。
経済的にも余裕が生まれ、屋敷の庭には色とりどりの花が咲き、その花を眺めながら静かにお茶を飲む。
望んでいたものが、一つ一つ現実となっている。けれど、私の心の片隅に空いた穴が塞がることはなかった。
その穴を塞ぐことは無理なのだと、何度自分に言い聞かせたか。そうして諦めたはずなのに、やっぱりしばらくすると、その穴は私に喪失感を抱かせる。
貞淑な妻となり、夫を愛し愛されて、愛の証である子を二人で育んでいく。その失ってしまった夢を、私はまだ、完全には諦められずにいた。
その話を耳にした時、私は耳を疑った。
「……まさか。冗談でしょう?」
からかうにしても、もっとうまい嘘を吐けばいいのに。嘲笑を浮かべながら睨む私に、ロアンは首を横に振った。
「いえ、事実です」
――ライラが、ブライアンを捨てて他の男と逃げた。
相手の男は、港湾の整備に伴い発展が見込まれるステイフォート領の港町に拠点を移してきた、隣国の商人だという。
ライラは元々、家に大人しく引き篭もって愛する人の帰りを待っていられるような女性ではなかったらしい。従僕から愛人となり、働く必要も無く、別宅でただブライアンの訪れを待つ暮らしに耐えられなかったようだ、とロアンは語った。
屋敷内で見かけても、ブライアンの様子はこれまでとあまり変わらなかったので、まさかそんなことになっているとは夢にも思わなかった。そもそも、例の食堂での一件以来、まともに顔を合わせていないのだから、気付かなくて当然といえば当然だった。
何と言って彼を励ましたらいいものか。いや、それ以前に、この件に関して私が何か言えば、返って彼の傷を抉ることになってしまうのではないか。
私が従僕を辞めさせたりしなければ、ライラがブライアンの元を去ることはなかったのだろう。そう思う度、胸が痛んだ。
ライラがいなくなった。それは、私がずっと望んでいたことだった。それなのに、いざそれが現実となると、私はブライアンに近づくことさえできなくなった。
彼はきっと私を恨んでいる。彼女さえいなくなれば、ブライアンは真の意味で私の夫となってくれると思っていたのに、現実は全くその逆だった。
突然、義父がやってきたのは、それからしばらく後の事だった。
ブライアンは仕事で不在であることを伝えると、義父は私に用があるのだと、縋るような表情を浮かべた。
「モリスを説得してくれないか?」
最初は、義父の言っている意味が分からなかった。けれど、彼の話を聞いて、義母の実家がとうとう爵位を売却する羽目になったのだと分かった。
ロアンから以前、義母の実家フレニーズ男爵家は、義母の兄にあたる当主が若い頃から放蕩者で、資産を食いつぶして落ちぶれているのだと聞いていた。義父が援助を続けて、辛うじて今まで爵位は維持していたものの、それもとうとう手放す羽目になってしまったらしい。
そして、数多くの債権者を取りまとめ、爵位売却の仲介に立っているのがモリス商会なのだという。
「借金など、今のステイフォートの財力をもってすれば何とかなるはずだ。君は、モリスの幹部と親しくしているそうじゃないか。彼を通して、この話を白紙に戻して貰えないかね」
「そう言われましても、モリス商会の方針に口を出す権限なんて、私にはありません」
借金を肩代わりするつもりなら、ステイフォート伯爵家当主のブライアンが債権者と話し合うのが筋だろう。相談するなら、私ではなく息子の帰りを待つべきだ。
だが、そう続けようとする間もなく、義父はいきなり顔を真っ赤にして怒鳴り始めた。
「ハッ! お高く留まって、義理の父親の頼みも聞けないというのか。お前がブライアンと結婚できたのは、誰のお蔭だと思っているのだ!」
言われた意味がよく分からずに呆然と立ち尽くしていると、義父はいきなり私の手首を掴んだ。
砕けるかと思うほどの強い力で掴まれた手首に痛みが走る。けれど、顔を歪める私のことなどお構いなしに、義父はそのまま私を引き摺っていこうとする。
「何をなさるのですか」
「これから、私と一緒に来い! モリスの本部に直接乗り込んで、話をつけるんだ」
初老とはいえ、体格のいい男性の力に、女が抗ったところで太刀打ちできるものではない。
「何をなさっておいでです。おやめください、大旦那様!」
「うるさい!」
止めに入ろうとした細身のロアンは呆気なく振り払われ、椅子に体のどこかを打ち付けたのか、痛みにのたうち回っている。
玄関には、まだ義父が乗ってきた馬車が横付けされている。もし、その中に引きずり込まれてしまったら、私は否応なくモリス商会まで連れて行かれてしまう。
以前、何度か訪れたことのある、モリス商会の本部。貴族の邸宅を差し押さえて改修したという豪奢な社屋で、無理を通そうとする義父の横で恥を晒す己の姿が目に浮かぶようだった。
必死の抵抗も虚しく、抱えあげられて馬車に押し込まれそうになる。咄嗟にドアの縁を掴んで抗うと、義父の目に狂気に似た光が宿った。
「この私に、逆らおうというのか!」
身体に強い圧力が掛かったと同時に、ガツンという衝撃を受けて意識が途切れた。