8.
考えてもみろ、アンネローゼがこの家に何をもたらしてくれたのかを。それなのにお前は、情に流されていつまでもこんな女を――。
やめてくれ、父さん――。
妻を迎えておきながら、これほど堂々と愛人を連れ回すとは。恥ずかしいとは思わんのかっ――!
全部、あなたの企みでしょう! それに、あなたも自分の事は棚に上げて、勝手なことばかり言わないでくれ――!
怒号が飛び交う客間で、掴み合う父子。それを引き離そうと、ライラがブライアンを、義父をロアンが背後から羽交い絞めにする。そんな光景を前に、私はただ呆気に取られていた。
フッ、と悲し気な悲鳴が聞こえ、振り向くと義母が声も無く涙を流していた。
「お義母様、大丈夫ですか?」
慌てて駆け寄って肩を抱くと、彼女の身体は折れてしまうかと思うほど細かった。
妻の異変に気付いたのか、しがみ付いているロアンを力任せに振りほどいた義父は、慌てたようにこちらへ駆け寄ってきて、妻の身体をぎゅっと抱きしめた。
「……すまないね。見苦しいところを見せてしまって。私は息子と二人で話したいことがある。少し、妻をお願いしてもいいだろうか」
まだ興奮が冷めやらない口調で私にそう言うと、義父は名残惜しそうに義母から離れ、ブライアンの背を押すように客間を出て行った。
その後を追おうとドアの前まで行って、ライラは足を止めた。ああまで言われては、義父と共にいるブライアンを追っていくことはできなかったのだろう。
「ライラ」
思わずそう声を掛けてしまってから、私は続ける言葉に困った。
私がお義父様に、ああ言うよう吹き込んだ訳ではないのよ。
そう言おうとして、何てわざとらしいのだろうと思った。そんなことを言ったところで、ライラがこの状況をどう受け止めたかなんて変わりはしないのだ。
「……部屋に戻りなさい。用があったら呼ぶわ」
気にする必要はない、という励ましの言葉は掛けられなかった。何故なら、少しは彼女がこの家にもたらしている悪影響を省みて欲しかったから。
けれど、それみたことか、お義父様の言う通りだ、などと追い打ちをかけるような言葉を掛けようとは思わなかった。
「はい。失礼します」
ライラは少し青褪めてはいたけれど、気丈に一礼して踵を返した。
「大丈夫ですか? 落ち着かれました?」
涙が止まったのを見計らって声を掛けると、義母は小さく頷いた。
「お茶がすっかり冷めてしまいましたわね。今、淹れなおしますから。お菓子はどうですか? 先日、王都で有名な焼き菓子を出入りの商人から手に入れたのです。おいしいですわよ」
「……あなたは、大丈夫?」
か細い声でそう問われて、不意に喉の奥に何か大きな塊が詰まったような気がした。そんな風に気遣って貰えて初めて、私はあの二人の言い争いで恐怖に慄いていた自分に気付くことができたのだった。
「……ごめんなさいね。あの人は、勝手な人だから。……ああ、でも、あなたは私とは違うから、きっと大丈夫ね」
そう言って微笑む義母は、老いて痩せ細ってはいても、惹き込まれるように美しい。その浮世離れした儚さに惑わされて、つい聞き流しそうになった言葉がふと胸に引っかかる。
あなたは私とは違う――。
その言葉の意味を理解しようと思い悩めば、とてつもなく深い淵の底まで落ちてしまいそうな気がして、私は小さく頭を振った。
気分転換にお庭を散歩しましょうと持ち掛けて、義母を外に連れ出す。すっかり様子の変わった庭に戸惑った表情を浮かべる義母にやや不安を覚え始めた時、草が立った一角を見て義母はフワッと微笑んだ。
「……良かった。残しておいてくれたのね」
地面にへばりついたように広がったまま枯れている草を、義母は愛おしそうに撫でた。
「お義母様が大切に育てておられたと聞いておりましたので、手を付けずにそのままにしておきました。申し訳ありません、手入れもせずに」
「……いえ、寧ろよかったわ。これと、これは、可愛い花が咲くの。……これとこっちは香草よ。後は雑草だから抜いてしまっても大丈夫。……でも、もうこの家の女主人はあなたなのだから、構わず好きにしていいのよ」
そう言われても、ではそうします、と全て引き抜く訳にはいかない。
私はユリアにサムを呼びに行かせ、花と香草以外の雑草を抜いて花壇として整えるよう指示した。
その間、微笑みながらじっと地面の枯草を見つめる義母の心は、またどこか遠くを彷徨っているように見えた。
庭から戻って玄関を入ると、ちょうど二階から、真っ青になったブライアンと真っ赤な顔を歪めた義父が降りてきた。
義父は改めて失礼したと私に詫びると、怯えたような表情を浮かべる義母の腕を掴み、用意された馬車に乗ってあっという間に帰って行った。
その光景はあまりに異様に思えたのだが、以前からこの屋敷にいた使用人達の反応は至って冷静だった。義父は、普段からあんな風に激昂しやすい性格なのかも知れない。
遠ざかっていく馬車を見送って振り返ると、そこにはもうブライアンの姿はなかった。どこへ行ったかなど、誰に問わなくても分かる。姿が見えないライラを探しに行ったのだろう。
突然の義父母の訪問に対応した妻の労力に対する、労いの言葉など何一つなく。
不意に込み上げてきそうになった涙を必死で堪えた。
どんな思惑があるか分からないとはいえ、義父母が私をブライアンの妻として扱ってくれたことで、私は危うく自分の立場を忘れるところだった。
私は、夫から愛されていない妻なのだ。だから、彼に何かを期待してはいけない。期待するから、裏切られたと悲しくもなるのだ。
気持ちを落ち着ける為に、私は玄関を入らずに庭へと回った。
一人になりたいと思っていたのに、建物の角の向こうから人の話し声が聞こえる。別の場所へ行こうと踵を返そうとして、その会話の内容に思わず足を止めた。
「若奥様もやるわね。大旦那様を使ってライラを追い出そうとするなんて」
ドキッ、と心臓が跳ねた。
「まあ、ライラもそろそろ潮時かもしれねぇな。これだけどっぷり若奥様の金に漬かってしまっちゃあ、旦那様もこれ以上好き勝手はできねぇよ」
「そうそう。それに、下手にライラを庇って若奥様の機嫌を損ねちゃあ、また元の貧乏貴族に逆戻りになりかねないもの。せっかく給金も上がって、奥様が贔屓にしている商人から毎回いい物を貰えて大助かりなのに、それが無くなるなんて御免だわ。私達も、そろそろあの子の扱いを考えないとね」
声からして、女中の一人と下男らしい。この角の先に勝手口があり、その戸口で二人は話しているようだ。
その角を曲がり、そうではない、と二人に言い聞かせ、ライラに対してこれまでと変わらず接するよう言い含めるのが、女主人として望ましい姿なのだろう。
けれど、私の足は、まるで地面に縫い付けられているように動かなかった。
私の中には、間違いなくライラを憎む気持ちはある。駄目だと分かっていても、その感情を完全に消し去ることなどできない。
もし、こうやって自然にライラがこの屋敷を去らざるを得ない状況になってくれたら、私は悪者にならずに彼女を排除することができる。
浅ましいと思いながらも、それを望む自分の感情に打ち勝つことはできなかった。
その日。夕食の時間に食堂へ足を運ぶと、ブライアンの背後にライラの姿はなかった。この屋敷にきて、初めてのことだった。
沈黙に包まれた食堂に、食器が触れ合う微かな音だけが聞こえる。こんなに静かで、痛いほどの緊張感が漂う食事は初めてだった。
その時、私は気付いてしまった。私がこれまで、食事の間何も喋らなくても良かったのは、ライラがブライアンと会話をしてくれていたからだと。ブライアンが何も教えてくれなくても、彼がその日どんな風に過ごしていたのか知ることができたのは、ライラとの会話を聞いていたからだ。
思えば、私は自分からブライアンに歩み寄ろうとしてこなかった。必要に駆られた時だけ、自分とはかけ離れた人格を演じて、自分の主張を押し通してきた。それは夫に対して、失礼な態度ではなかったか。
沈黙が重い。それは、私がこれまで放棄してきたものの重さだった。
「……旦那様」
意を決し口を開くと、出てきたのは素の自分の声だった。
「ライラは、どうしたのですか?」
すると、ブライアンの手が震え、手にしたナイフがぶつかって、食器が耳障りな音を立てた。
「……体調を崩したらしい。今日はもう部屋で休むように言ってある」
「そうですか。……あんな風に言われては、ショックだったでしょうね」
それは本心だったのだが、声となって発せられると、何だか嘘くさく聞こえてしまう。
ブライアンにもそう聞こえたのだろう。フッ、と小さく鼻で笑って、ブライアンは呆れたような目でこちらを見ている。
私が義父にライラの存在に対する不満をぶつけたのだと思っているだろうに、彼は面と向かって私を責めるようなことはしない。そうしてくれたら、私はこの人を見限ることができるだろうに。それは彼なりの優しさなのだろうか。それとも、そんな風に私に腹を立てることさえ面倒くさいと思っているのだろうか。
そう。彼も私と同じように、こちらに歩み寄ろうとしない。不満があればはっきり言えばいいのに、ただその目に負の感情を湛え、時に私の存在をないものとして扱うだけで。
そして、私も彼に同じことをしてきた。彼にやられるように、同じことをやり返していたのだと気付いた。
不意に、何かが押し寄せてきた。それは、強い義務感に似た、衝動的な感情だった。その感情に突き動かされるように、私は口を開いた。
「旦那様は、いつまでライラを従僕として傍に置いておかれるおつもりですか?」
「……何?」
ブライアンが形のいい眉を顰める。
「ライラは女性です。どういういきさつで彼女が旦那様の従僕になったのかは分かりませんが、旦那様が彼女を大切に思っているのなら、しかるべき扱いをなさるべきです」
「しかるべき、とは?」
「彼女を愛しているのなら、使用人としてではなく、きちんと愛人として扱うべきではありませんか。別宅を構え、彼女を囲うだけのゆとりは、今のステイフォート伯爵家にはあるはずです」
目を見開いているブライアンに、これまでの天然で無知な女のたわごとではなく、静かな口調で淡々と申し上げれば、彼は完全に沈黙した。