7.
給金が上がるという情報に加え、ルークが私の元を訪れる度に持参するちょっとしたお土産によって、あれから使用人達のやる気は格段に向上しているようだ。彼らの表情は目に見えて明るくなり、邸内の雰囲気も良くなってきたように感じる。
可愛らしい花が植えられた庭を歩きながら、その周囲の植木を剪定しているサムに声を掛ける。額に汗して働く彼は、以前にも増して忙しそうに見えるが、その顔は溌剌としていて以前とは雲泥の差だ。
庭師は、庭仕事をするのが一番幸せだと、歯の欠けた口を大きく開けて笑うサムの笑顔を見ただけで、わざとらしい演技をしてブライアンに物申した甲斐もあったと思えた。
金銭で人の心を買うような真似は、決して褒められたものではない。それはよく分かっている。
けれど、ライラのように魅力的でもなく、特に秀でたものを持たない私にできることは、これしかなかった。
まるで、物語や劇に出てくるお邪魔虫と同じじゃない?
可憐に咲く花を眺めながら、思わず自嘲気味な笑みが漏れる。
主人公に愛されず、まるでその寂しさを晴らすかのように、富や権力に頼って周囲の者を取り込もうとする。その企みは、主人公達の純粋な愛の前に、あっさりと崩れ去ってしまうのだろう。そう、物語であれば。
けれど、現実を生きる私は、こうする他に自分の心を救う術を思いつけなかった。
ブライアンに妻だと看做されていなくても、私はこの家の女主人だ。例え妻としての務めを果たせなくても、せめて女主人として、この家の者達の生活を守り、領民を守り、ステイフォート伯爵家を発展させなければならない。それが、貴族の女としての当然の役割だ。
どうせ愛されることのないお邪魔虫なのだから、といじけて引き篭もるのは簡単なことだ。でも、そうやって独り不幸になったところで、あの二人が私に気を遣って関係を改めるとは思えない。
それならば、私も遠慮することなく、自分が望むように生きていこう。
ロアンは、ブライアンがライラを連れて外出すると、私にステイフォート伯爵家の内情を事細かく報告してくれた。
実家のハイネル伯爵家から援助を受けるにしても、こちらの状態を正確に把握していないと、何が必要で何が不要なのかも分からない。ロアンは立場上、ステイフォート伯爵家の現状やブライアンの方針を熟知しているので、彼から詳しい話を聞けるのは頼もしかった。
そう、ただ単に、父から無闇に金銭的な支援を受けるだけではいけないのだ。ステイフォート伯爵家が、ブライアンの母親の実家やライラの実家のようにハイネル伯爵家に寄生するようになってはいけないし、そもそもそういう状況を父は望まないだろう。
ブライアンは、何とか財政を立て直すべく、これまでも独自に努力を続けていたようだった。けれど、義父の代からひっ迫し続けている財政状況を、そう簡単に立て直すことはできない。そもそも資金がなければ、せっかく好機が訪れても、足を踏み出すことさえ出来ずに終わってしまう。
今、ブライアンは父から資金援助を受けて、新たな事業への投資を始めたようだ。けれど、それ以外に、ステイフォートの領地が豊かになるようなことはないだろうか。
こればかりは、商売に関しては素人も同然の私が、邸内で一人いくら考え込んでも、いい考えが浮かぶはずもなかった。
「何かいい案はないかしら」
ある日、今ではステイフォート伯爵家に頻繁に出入りするようになったルークに何気なく相談すると、彼は爽やかな笑みを浮かべながら、私の耳元に口を寄せて囁いた。
「今はまだ秘密だけれど、きっと近いうちに君の父上が何とかしてくれるよ」
「……えっ?」
「だから、君は何も心配しなくていい」
思わぬ言葉に目を瞬かせると、ルークは手にそっと触れた。
「私が商売の為だけに、君に会いにきていると思っていたのかい?」
「いいえ」
何となく感づいてはいた。上流貴族を相手に営業をしているルークが、私のほんの僅かな注文、それも値切ったり都合をつけてもらったりと割の良くない商売の為に、頻繁にステイフォート伯爵家を訪ねて来るのはおかしいと。
なるほど、父に頼まれて、この家の状況を探っていたのか。政略結婚とはいえ、妻としてこの家に入ったからには、この家の問題は自分で解決するべきだと思っていたのに。私が不甲斐ないばかりに、父にまで随分と心配をかけてしまっているようだ。
「ごめんなさいね。あなたにまで、随分と迷惑を掛けてしまって」
すると、私の手の上を滑っていた彼の指が、ピクッと震えた。
「君は昔から、そうやって何でも自分で抱え込もうとする。もっと周囲に甘えればいいんだよ」
そう言われて、昔からルークは私にとても優しかったことを思い出した。
二人の姉と年齢が離れている私は、幼い頃はとても我儘だった。けれど、いつの頃からか、母が私を懐妊した時、ようやく後継ぎの誕生かと過剰な期待をかけられていたことを耳にするようになった。その期待を裏切ってしまったことで、どれだけ家族が失望したかということも。
五つ年の離れた弟が生まれ、家族の彼と自分との扱いの差を認識するにつれて、私はどうすればハイネル伯爵家にとって必要な存在でいられるかを考えるようになった。そうして、辿り着いた結論は、貴族の娘らしく家の為に政略結婚することだった。
ルークは、周囲の大人に素直に甘えられない私の好みを先回りして調べ、私が欲しいと言う前に目の前に並べて見せるような人だった。子供らしくない正論を並べ立て、物わかりのいい振りをする私を、どうにかして甘やかそうとしてくれた。
今もそうだ。ステイフォート伯爵夫人らしく生きようと気を張っている私の、肩の力を抜こうとしてくれている。思えば、事態が好転し始めたのは、彼に再会してからだった。
「いつもありがとう、ルーク」
今はまだ経済的な余裕はないけれど、新規事業が成功して家計を立て直し、モリス商会を大いに利用することが、彼への恩返しになる。
きっと彼も、ただ父への恩義やボランティア精神だけではなく、将来の大口顧客を開拓するという思惑もあるはずだ。その思惑を、一日でも早く現実にしてあげたい。それが、私が彼にできる唯一のお返しだ。
少しずつ、ほんの少しずつ、ステイフォート伯爵家は変わり始めた。
荒れ放題だった庭は、ブライアンの母が手入れをしていた箇所を除き、大半がサムによって除草され、伸び放題だった庭木も形よく剪定された。
屋敷の人手が足りないと分かってから、私は自分でできることは自分でするようになった。食事も、できるだけ食堂に足を運び、ブライアンと共にするようにした。自室に運んでもらったり、時間をずらしたりすれば、それだけ使用人達の手を煩わせると分かったからだ。
そして、ひと月ほど時間を空けて、また以前と同じように、今度は使用人の数を増やして欲しいとブライアンに掛け合った。その結果、雑用係として男女二名を雇うことになり、ルークがモリス商会の伝手で働き者だと評判の人物を紹介してくれた。
人手が足りて余裕が生まれ、邸内はどこも輝くほど磨き上げられた。
経済的に窮するようになった先代が、先祖伝来の美術品をほとんど売り払ってしまったため、邸内は閑散として見える。けれど、磨き上げられた部屋に絵画を一枚飾り、花瓶に生けた花を置くだけで、落ち着いて洗練された雰囲気になった。ゴテゴテと壁面を埋め尽くすように様々なものを飾るより、私はこの方が好きだった。
暖炉の前に座って、私はひたすらレース編みをする。玄関ホールの丸テーブルに敷いて花柄の花瓶を置けば、さぞかし映えるだろう。そんなもの、買ってしまえば早いのだが、自分で編めば安くつくと思う辺り、私もブライアンの貧乏性が伝染してしまったのかも知れないと、手を動かしながらおかしくなって笑ってしまった。
そんなある日のことだった。突然、ブライアンの両親が別邸からやってきた。
結婚前の挨拶と、結婚式当日に顔を合わせたきりの義父母は、私達の様子を見に来たのだと言ったが、訪問の理由はただ単にそれだけだとは思えなかった。
父がブライアンに提案した新規事業は上々の滑り出しで、先月からその利益が入るようになっていた。彼はやはり優秀な人物らしく、適切なアドバイスと資金さえあれば才能を発揮できるようで、その働きぶりを報告してくるロアンも嬉しそうだった。
その噂が、義父の耳にも入ったらしい。口には出さないけれど、目の奥には好奇心と欲に満ちた光が垣間見えていた。
逆に、義母は相変わらず、儚げな笑みを浮かべて義父の背後に立っていた。客間に案内し、椅子を勧めて座らせ、お茶と菓子を用意して勧めても、彼女は魂の半分はどこか別の所を彷徨っているような表情をしていた。
義父は、私の事を案じてくれた。この屋敷での暮らしはどうか、ハイネル伯爵家とのあまりの違いに戸惑っただろう、息子はちゃんと夫としての務めを果たしているか……。
返答に困る質問もあったが、何とか当たり障りのない対応をする。
その時、ようやくブライアンが外出先から戻ってきた。
息子を見て嬉しそうに立ち上がった義父は、その後ろから入ってきたライラを見て、あからさまに眉を顰めた。
「お前、まだその女を傍に置いているのか」
その言葉に衝撃を受けたのは、言われた本人であるブライアンと、批難されたライラだけではなかった。
ブライアンの白い肌に、さっと赤みが差す。冷静を装いながら、怒りに燃えるその蒼い瞳が映しているのは、義父だけではない。
そこには、私の姿もあった。