6.
自分好みのものに囲まれて、ゆっくりと過ごす時間の何と心地いいことか。
香りのいい紅茶を嗜みながら、窓から庭を見下ろす。そこでは、庭師が荒れた庭の雑草を引き抜き、ルークが格安でまわしてくれた花の苗を植えている。
元の部屋から見える庭が荒れていたのは、そこにはかつてブライアンの母親が薬草や故郷の草花等を植えていたからというのが原因の一つだった。手入れをする者がいなくなっても、庭師はかつての奥方が育てていたものを引き抜く訳にもいかなかったらしい。
それは私も同じことだった。彼の母親に関するものは、できるだけ手を付けたくなかった。元の部屋から離れた今の部屋に移ったのは、心置きなく植え替えのできる庭が見下ろせる場所だからでもある。
庭師は初老の男だが、日に焼けて皺の多い顔を気難しそうに顰めている、一見期の難しそうな人物だった。これまでの庭の様子を見れば、彼が与えられた役割をしっかりと果たしているようにはとても思えなかった。屋敷の庭は確かにそれなりに広いが、それにしてもあまりにも手を入れていない部分が多過ぎる。
そこで、先日彼を呼び出して問いただすと、そのサムという名の庭師は、目を血走らせながら反論してきた。
彼曰く、この屋敷は使用人の数が他所の屋敷より少なく、サムは本来の庭仕事以外に、下男がやるような力仕事や雑用をしなければならない。その上、給金も他の屋敷に比べて少ない。だから、ロアンを通じてブライアンと交渉し、庭の手入れは体面を保つだけの必要最小限でいいということにして貰っているのだという。
取り敢えず、あなたを責めるつもりではなく、事情を聞きたかっただけだと宥めて一旦帰すと、疼くこめかみを指で揉みながら、同席していたロアンを恨みがましい目で睨む。肩を竦めたロアンの表情を見ていると、彼がこうなるだろうと半ば予測していたのは明らかだった。
今日も、ブライアンは視察と言う名のデートだ。全く、暢気なものだと呆れてしまう。けれど、彼らがこの家にいない方が、私も精神的に楽ではあるし、こうやって気兼ねなくこの家の事情について調べることができる。
何故、使用人達が私に対して愛想がないのか。それも、冷静になってよくよく話を聞けば、ライラのことだけが理由ではないと分かってきた。
ブライアンが伯爵となり、両親が領内の別宅に移ったことで、ただでさえ厳しい家計が更に厳しくなった。本邸と別宅、それぞれに主が暮らす為の経費がかかるので、出費がかさむのは当然だ。
そこで、ブライアンは自分が暮らす本邸の使用人の給金を下げ、人数を減らし、その代わり仕事の量と質、それに拘束時間を減らした。ステイフォート伯爵家には、それでもいいという使用人だけが残った。
独身のブライアンも平民上がりの元騎士ライラも、多少屋敷の人手が足りなくても、手の行き届かないところがあっても、さほど不便を感じなかったのだろう。
ところが、私が嫁いできたことで、事態は大きく変わった。裕福な伯爵家の娘を迎えるに当たって、新たに使用人を雇おうとしても、あの家は給金が良くないと使用人の職を探す者達の間で知れ渡っている為、応募してくる者がいない。おまけに、給金や仕事の量や質も、一度落としてしまったものを、短期間ではなかなか戻せるものではない。
給金は元に戻らないのに、やらなければならないことが増えた。それもこれも、若奥様がいるからだ。
嫌われるにしても、何という理不尽な理由だろう。私はそれほど使用人達に無理を言ったつもりもなければ、彼らの態度に文句を言ったこともないはずだ。
それでも、私が来るまでは、この屋敷には日中主が不在になっていたので、彼らは羽を伸ばすこともできていただろう。それが、今は女主人である私が一日中屋敷内にいる。それだけでも、彼らの負担は増しているのだ。
「それで、この家の給金は平均値からいうとどれほど安いの?」
ロアンに問えば、仕事量の増加に合わせて手当てを徐々に増やしているので、今は実質二割ほどだという。
「せめて、平均値にまで引き上げることはできないの?」
「それは、旦那様のお考え次第です。ただ、奥様がもたらしてくださった財産で給与を引き上げ人手を増やしても、長続きしなければ意味がないでしょう。奥様の御実家が勧めてくださっている新規事業が上手くいけば、安定した収入に繋がるでしょうが」
私の持参金にも限りがあるので、延々と人件費に充て続ける訳にもいかない、とブライアンは考えているらしい。何となく、身に沁みついた彼の貧乏性のようなものを感じてしまう。
例えブライアンを派閥に取り込む為だとはいえ、見込みのある新規事業を共に開拓し、資金援助までしてくれている父の存在は本当にありがたい。父の後ろには宰相閣下の権力とモリス商会の富があるので、事業がうまくいくことはほぼ確実だろう。
とはいえ、その事業が成功し収入が増えるまで、暢気に待ってなどいられない。
「彼らは、給金が安いから働きたくないのでしょう? 待遇を良くして、その分働いて貰えば、さほど人数を増やさなくてもいいのではなくて?」
私は別に、実家で暮らしている時のように、常時三名の侍女を侍らしたい訳でもなく、王宮に引けを取らないほど見事な庭園を望んでいる訳でもない。ただ、この屋敷に漂う荒んだ空気を何とかしたいだけなのだ。
「とにかく、今いる人数で何がどこまでできるのか考えましょう。人を増やすかどうかは、その後の話だわ」
ロアンは翌日、女中頭のメラニーと協力して、使用人達が本来はやらなければならないが免除されている仕事、本来は担当ではないが人手不足の為にやっている仕事を調べて資料としてまとめてきた。
他家の使用人事情に詳しくない私の為に、ロアンは一般的な貴族家の使用人事情を交えながら丁寧に説明をしてくれた。それによると、やはりステイフォート伯爵家の使用人達の負担は、他家と比べても大きいようだった。それなのに給金が平均より低いのだから、これは確かに不満が溜まっても仕方がない。
それにしても、と、私は手にした資料を眺める。担当外の仕事の欄に、他の使用人達とは違い、何も記されていない人物がいる。ライラだ。そして、彼女がやっているという仕事の大半が、ロアンや下男の担当外の仕事にも重複して載っている。
つまり、本来ライラがやるべき従僕の仕事を、ロアンや下男の少年が補助しているということだ。やはり女性の身で、本来男性の仕事である従僕を務めるのは大変なのだろう。
けれど、現在このステイフォート伯爵家が置かれている状況からすれば、彼女の存在は異質過ぎる。これでよく他の使用人達から白い目で見られないものだと不思議に思う。
そこで、ふと思った。彼女は彼らにとって、同じ使用人ではなく、ブライアンの妻という認識だったのかも知れない。主の妻でありながら、使用人達と共に献身的に主を支える存在。なるほど、それなら彼女をありがたがり、応援したくなるのも分かる。
この家は、貴族としての体面を保つには厳しい状況だったかも知れないけれど、貧しいなりに独自のやり方で秩序を保っていた。そこにやってきて、その秩序を乱したのは私だ。
私達の結婚は色々な思惑の上に成り立っていて、私もブライアンも心から望んでいたものではない。だから、誰が悪いだとか、間違っていたなどという結論を軽々に出すものではない。
けれど、その結婚によってこれまでのやり方が通用しなくなったのなら、状況に合わせて変えて行かなければならないのは当然のことだ。
使用人達の置かれている状況を知ってしまったからには、早急に手を打つ必要がある。けれど、この家の主であるブライアンを差し置いて、私の一存で勝手に使用人達の給金を上げることなどできない。例えこっそり手を回したとしても、主を無視した行動が度を過ぎれば、無用な火種を生むことになってしまう。
考えた末、夕食時、私は食堂へと足を運んだ。
部屋を移りたいとブライアンに頼んだ日以降、近寄ることもしなかった食堂へ足を踏み入れると、聞こえていた談笑する声がぴたりと止んだ。
「旦那様」
終始無言で食事をしていた私は、またもブライアンとライラが交わす会話が途切れたところで口を開いた。
ブライアンの顔から表情が消え、こちらを見つめる目に緊張感が浮かぶ。以前と同じ反応を見せる彼を見つめながら、私は覚悟を決めて大きく息を吸い込んだ。
「何だか、使用人達にやる気が見られませんの。どうしてかと問い詰めたら、何てことでしょう! 給金が他の家と比べてとても低いのですって。何故、そんなに彼らを冷遇しておいでなのですか?」
思い切って言いたいことを言う為に、私は演技をすることにした。無邪気で無知で我儘で、言ってはいけないことなど分からない無神経な女を演じることで、言葉はすらすらと私の口から飛び出してくる。
何も知らない風を装い、本当に不思議でならないという表情で首を傾げてみせると、ブライアンの顔色がみるみる赤くなった。恥ずかしいというよりは、痛い所を突かれて怒りが込み上げてくるのを必死で堪えているといった風だった。
何も答えない、いや、答えられないといった様子の彼に、私は尚も無邪気さを装って言葉を重ねる。
「私、恥ずかしいですわ。充分な給金も払っていなかったのに、何も知らずに彼らを当然のように使っていただなんて。何とかならないんですの? もし、家計が大変だというのなら、私、父にお願いして……」
凄まじい音を立てて、ブライアンが座っていた椅子が後ろに倒れた。それほど勢いよく、彼が急に立ち上がったのだ。
「……君が心配するようなことは何もない」
「まあ、さすが旦那様。早速、対処していただけますのね!」
内心の動揺を抑えながら、大袈裟に喜んでみせると、ブライアンは不意に毒気を抜かれたような顔になった。
「ああ」
「嬉しいですわ。これで私も、心置きなく使用人達にあれこれ命じることができます」
そう言ってにっこりと笑みを浮かべれば、ブライアンは何か気味が悪いものを見るような表情を一瞬だけ浮かべ、残っていたワインを煽ると、食堂から足早に去っていく。
その後を追うライラがちらっとこちらに向けた表情も、何か恐ろしいものでも見るように強張っていた。
そんなに不自然な演技だっただろうか。けれど、これまで暗い顔をして自室に引き篭もっていた女が、突然人格が変わったようにズケズケとものを言うようになれば、恐ろしくも感じるだろう。
ブライアンに物申さなければならない、という緊張感から解放されてホッと小さく溜息を吐く。ふと顔を上げると、女中頭のメラニーが目を潤ませながら笑顔を浮かべながら、音がしないように手を叩いていた。