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5.

 領内の視察に出ていたブライアンとライラが帰宅し、夕食の支度が整うと、私は久しぶりに食堂の扉を潜った。

 ブライアンは相変わらず、私のことなどそっちのけで、隣に立つライラと今日の視察について語りながら、頬を緩ませている。

 いつもなら、そんな光景を見て目の前が真っ暗になるほどの絶望感に襲われるのに、何故だか今日は平気だった。きっと、これからやるべきことに意識が向いているせいで、そんなことを気にしている余裕などないのだろう。

 ブライアンがワインを煽る際に、ライラとの会話が途切れる。そのタイミングで、私は口を開いた。

「旦那様」

 その瞬間、ブライアンの表情からするりと微笑が滑り落ちた。代わりにそこにあったのは、彼の顔を精巧に再現した面かと思えるほど、内心の窺えない作り物めいた顔だった。

 これまで、私はこの表情を浮かべた彼を、他人行儀過ぎるほど紳士だと思っていた。けれど落ち着いてよく見れば、その目には明らかな警戒の色が浮かんでいる。

「何だい?」

 問いかけてくる彼は、若干腰が引けているようにも見える。もしかしたら、私が姉に何を喋ったのかと警戒しているのかも知れない。

「実は、お願いがあるのです」

「……何だろうか」

「お部屋を移りたいのです。今のお部屋は、実は少し手狭なのです。二階の奥にある空き部屋の方が、窓からの景色も良くて気に入ってしまったのですが、そちらに移ってもよろしいでしょうか?」

 ブライアンは一瞬ポカンと口を開いた後、ほんの僅か眉間に皺を寄せた。

「……別に、構わないが。あの部屋は祖母が使っていたもので、もう何年も使われていない。手を入れなければ使えないだろう」

「自分の部屋のことですから、それは自分で何とか致します」

「そうか。なら、好きにすると良い」

 口では許可を出しながら、眉を顰めたところを見ると、本心ではあまりいい感情を抱いていないようだ。

 そんな表情をされたら、これまでの私だったら自分の気持ちを押し込め、主張を押し通すことなどしなかっただろう。……でも、これからは違う。

「ありがとうございます」

 言質は取ったとばかりに、にっこりと大袈裟に微笑んでみせる。そして、用は済んだとばかりに、私はさっさと夕食を平らげ、席を立った。


 夫が意に沿わない結婚相手を迎えるに当たり、かつて自分の母が使っていた部屋を、家具やカーテンや壁紙も何一つ変えずにそのまま、ただ掃除だけして用意した部屋。何もかも使い古して、新妻の住まいとしては華やかさの欠片も無い。それこそ、ブライアンの私に対する「どうでもよさ」が伝わってくる。

 そんな部屋でも、彼が私の為に用意してくれたのだからと受け入れてこれまで暮らしてきたけれど、一度もう嫌だと思ってしまった後は耐えられなくなってしまった。

 この家の主であるブライアンの私室と、ドア一つで繋がっているこの部屋は、主の妻に与えられる当然の場所だった。けれど、そのドアが開いて、ブライアンがこの部屋へやってくることは、結局一度もなかった。

 そういう本来の役割を果たせていない部屋に、もうこれ以上私がいる意味など無い。隣の部屋の気配を気にして心をかき乱されるのは、もう御免だ。


 モリスは、実家のハイネル伯爵家ご用達の商会だ。扱う商品は多岐に渡り、それなりにいい値もするが、勿論品もいい。そして、モリス商会を経営する男爵家は、私の母の実家でもあった。

 翌日、出掛けたブライアンと入れ替わるようにやってきたのは、私の従弟になるルークだった。

「久しぶりだね、アンネローゼ」

 五つ年上のルークとは、彼がハイネル伯爵家にも頻繁に出入りしていたこともあり、親しい間柄だ。それに何より、彼は私の好みを良く知っている。

 私は早速、ロアンと共に、ルークを引っ越し予定の部屋に案内した。

 日当たりが良く、比較的ましな箇所の庭が見下ろせるその部屋は、急いで掃除をさせたので埃っぽさはない。ただ、そこに置かれていたものは何から何まで元の部屋以上に古びて、布製品の類は朽ちてしまっているものもある。

「まず、カーテンと天蓋を取り換えるわ。それから、テーブルクロスに絨毯も。家具も必要ね。感じとしては、私がハイネル伯爵家で使っていた部屋と似た雰囲気にしたいの」

「奥様。それは……」

 ロアンが驚いた表情で、慌て口を挟んでくる。彼は、私がただ部屋を移るだけで、必要な物は元の部屋から持ってくると思っていたのだろう。

「この家のお金は一切使う気はありません。だから、私の好きなようにさせて貰うわ」

 私は実家から持参した高価なアクセサリーや宝石を売って、自分好みの部屋を一から作るつもりだった。

 元の部屋は元々ブライアンの母親が使っていたものだから、好き勝手に模様替えして、彼の大切な思い出まで壊してしまい、後で面倒なことになるのだけは御免被りたい。それも、部屋を移ることにした理由の一つだ。それに、あの部屋から持ち出して今後も使いたいと思えるものも、何一つなかった。

 これまで見せたことがないほどはっきりと意思表示をしてみせると、ロアンは大人しく口を噤んだ。

 ルークは、私が言わんとするところを汲み取り、あっという間にアクセサリーの査定と改装の見積もりを終えた。提示された金額を見て驚きながら顔を上げると、ルークは小声で呟いた。

「君の父上には、随分とお世話になっているからね」

 モリス男爵家は元々豪商で、貴族ではなかった。落ちぶれた貴族家から貴族の称号を買った後、羽振りだけは良かったが、やはり商人上がりだと貴族社会では冷遇されていた。そんな時、私の父がモリス当主の娘を妻にと望んだお蔭で、モリス男爵家は貴族としての地盤を固めることができたのだ。そして今では、ハイネル伯爵家を通じて宰相家や侯爵家とも交流し、上流貴族との関わりも増え、彼らを相手に商売の方も右肩上がりに成長を続けているらしい。

 その恩義に報いようと、こうして私にまでよくしてくれる彼の気持ちに、久しぶりに胸がじんわりと熱くなった。

 改装の実施日を伝えると、背後でロアンが小さく息を飲むのが聞こえてきた。

 その日は、ブライアンは父に持ち掛けられた新規事業の視察の為、港町ハロードに宿泊する為、不在の予定になっている。何故私がその日を選んだのかを、何も言わずとも彼は察したのだろう。

 当日、出入りするモリス商会の者達や数々の品をブライアンに見られて、途中で横槍を入れられてはたまらない。彼が知らないうちに全て終わらせてしまえば、きっと彼はこの部屋がどんな変貌を遂げているか目にすることもないだろう。何しろ、結婚後三カ月も経っているのに、一度として私の部屋を訪れたことがないのだから。


 ルークは帰り際、挨拶代わりだと言って、ちょっとした品を屋敷の使用人達に配って回った。それは平民である彼らにとっては手を出しにくい価格の酒であったり、化粧品であったり、流行は過ぎたが質のいい布地だったりした。

 男爵家の三男で、今はモリス商会で貴族相手の営業をしている彼は、貴族の使用人に対しても腰が低く、それでいて頼もしさも感じさせる爽やかな好青年だ。彼は、屋敷を出る頃には、この家の使用人達の心をしっかりと掴んでいた。

 

 そして三日後。これが同じ部屋かと目を疑うほど、新しい私の部屋は私好みの明るく可愛らしい空間へと生まれ変わった。


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