4.
「ステイフォート伯爵とは、うまくやっているの?」
顔を覗き込んでくる二番目の姉に微笑もうとして、表情筋が軋むのを感じた。笑うのに失敗した顔は、今にも泣きだしそうに見えるのだろう。そんな私を見て、彼女は美しい眉を顰めた。
ステイフォート伯爵家に嫁いで三カ月。必要最低限の茶会にしか出席せず、体調不良を理由に夫と同伴すべき夜会を欠席し続けている私を不審に思ったのか、二番目の姉が私を訪ねてきた。
突然、と言ってもいい訪問に、私と共に姉を出迎えたブライアンは、視察の予定があると早々に席を外した。姉も、妹の様子を見に来ただけだから気にしないで欲しい、と笑顔で応じ、応接室から彼の姿が消えるのを見送った。
室内に私と姉、そしてユリアだけになると、姉は両親や上の姉が私の事を案じていると切り出した。結婚後も、ブライアンが相変わらず男装の従僕と行動を共にしていることで、様々な憶測が飛び交っていることも教えられた。
ああ。彼女は私を案じているという名目で、父の小言を伝えに来たのか。
テーブルに隠れて見えない膝の上で、ぎゅっと固く両手を握り締める。
元々、花が咲いたように明るく美しかった二番目の姉は、今ではまるで艶やかに咲き誇る大輪の薔薇のように華やかに光り輝いている。夫となった人に愛され、その愛を受け入れて生きる覚悟を決めた彼女からは、まるで女王のような気高ささえ感じられた。
ここまでくるのに、彼女がどれだけ辛く悲しい思いをしたことか。きっと、私の想像など及ばないほどの苦しみであったに違いない。添い遂げたかった相手は確か男爵家の三男だったか。騎士団に所属していたものの取り立てて才能があった訳でもなく、とても父の許しを得られるような相手ではなかったと聞いたことがある。それでも、この姉にとっては愛しい人だったのだ。
……そうだった。愛する人と引き離され、格上でも性格に難のあると有名な人に嫁いでいく彼女を哀れに思いながらも、一方で私は彼女の我儘を非難したのだった。貴族の娘として政略結婚は当然のこと。なのに、好いた惚れたで家族を巻き込み騒ぎを起こすなんて、と。
それが、今ではどうだろう。片や、政略結婚で結ばれた夫に愛されて満ち足りた輝きを発している姉に、片や同じ政略結婚でも夫に見向きもされずに塞ぎこんでいる私。
傷ついて地面に堕ち、もがいている小鳥のようにボロボロになっている私に、彼女は突き放すような言葉を放った。
「しっかりなさいな、アンネローゼ。あなたらしくもない」
同情の欠片も無い、その言葉に胸が軋むような音を立てて痛んだ。
「ハイネル伯爵家の娘として果たすべき義務を、あなたは一番良く理解していたはずだわ。まさか、嫁いだだけで役目は終わったと思っている訳ではないわよね?」
そんなこと、改めて言われなくても百も承知している。
……けれど、分かっているけれどできない。私が、彼に何を言えるというの?
積もり積もった焦燥感が、愚痴となって姉へと向かう。
「……アデリーナお姉様は、夫に愛されているからそんなことが言えるのよ」
私は、夫とその愛人から見ればお邪魔虫なのだ。この家に財産と権益さえもたらしてくれれば、後は用のない存在。
それなのに、これ以上、一体何ができるというのだろう。この家に妻として存在するだけで精一杯なのに。
顔を伏せた私の耳に届いたのは、まるで詩を朗読するかのような姉の声だった。
「そうやって嘆いても、何も変わらないわ。与えられた状況でどうやって幸せになるか、それを考えるべきではなくて?」
その言葉に、思わず喉の奥から潰れた悲鳴のような声が漏れた。
呆然として顔を上げると、妖しいほど美しい姉の刺すような笑顔がそこにあった。
「覚えているかしら。あなたが、私に言った台詞を」
それは確かに、宰相家へ嫁ぐ前、無理矢理恋人と引き裂かれ泣き暮らしていた二番目の姉に、私が掛けた言葉だった。
つまり私は、姉に諦めろと言ったのだ。救いの手など差し伸べられない。諦めて父の言う通り縁談を受け入れ、そこで幸せになる道を自力で探せと。
自分が言った台詞でありながら、逆の立場になり掛けられたその言葉は、酷く冷たく突き放すもののように聞こえた。
そして、私は気付いてしまった。
何故、自分がこんなにも傷つき、「あなたらしくもない」などと言われるほど委縮し、後ろ向きになってしまっていたのか。
私は愛されたかったのだ。……誰に? 勿論、夫であるブライアンに。
こちらが誠意を持って尽くせば、政略結婚といえどもいつかは愛が芽生えるだなんて、ただの願望でしかなかった。それでも、それを信じていたかったのは、自分が愛される可能性をゼロにしたくはなかったから。
茶会や夜会の席でよく耳にする、冷え切った夫婦関係でいる人達。耳にする度、あの人達のようにはなりたくないと、ずっと思っていたから。正直に言えば、そういう関係を改善できない彼らを軽蔑していたから。だから、自分がいざ同じ状況に陥ったのだということを、受け入れられなかったのだ。
私という存在が歓迎されないものならば、これ以上ブライアンやライラや、ステイフォート伯爵家の人々の気に障らないように過ごせばいいと思っていた。時が経てば、やがて私をこの家の人間として受け入れてくれる。それまで我慢すればいいのだと。
そんなもの、ただ私の思い込みでしかなかったのに。
二番目の姉が帰った後、自室に戻った私は、改めて室内を見回した。
ブライアンが、いや、この家の者が私の為に整えたというこの部屋は、カーテンも家具も天蓋も、全てが時代遅れの古めかしいもので、色彩も暗く、私がこれまで実家で暮らしてきた頃と比べてどれも古ぼけて質素だった。
窓から見える庭は、使用人の数が足りていないせいか手入れが不十分で、私の部屋に花が飾られることもなかった。
実家は裕福だったから、欲しいものは大抵手に入った。贅沢をしていたつもりはないけれど、自室を自分好みのもので揃え、庭の美しい花々を飾って愛でていた。
つい最近まで当たり前のようにあった日常を思い出し、今との差異に改めて唖然とした。
私は、あまりに物語の悪役に酷似した自分の立場に委縮し、不幸になると決めつけ、自分を見失っていたのかも知れない。
今の状況に涙で枕を濡らしつつ口を閉ざしていても、今の状況が改善するとは思えない。どうせ何をしてもお邪魔虫として扱われるのなら、もうこれ以上自分を抑えつけて生きていく必要などない。
「ユリア。モリスを呼んで」
突然の命令に唖然とする侍女の目の前で、私は薄らと黄ばんだ年代もののテーブルクロスを勢いよく剥ぎ取った。
「……もう、こんな辛気臭いところなんて、我慢ならないわ!」