3.
ライラは、多くの美しい貴族女性を見慣れている私から見ても、とても美しい女性だった。
年齢は、ブライアンより二つ年下の二十一歳。背が高くすらりとしていながら、女性らしさも感じられる身体つきをしていて、騎士団で鍛えられたせいか身のこなしもしなやかで美しい。
女性の身で騎士として世を渡ってきた為か、人当りも良く立ち回りがうまい。本来は男が担うべき従僕としての仕事も、何の苦もなく器用にこなしているといった様子だった。
私は、何も彼女の全てを否定したいとは思っていない。寧ろ、私と何の関わりもない人物であったならば、男装してでも愛する人の傍で尽くす姿に、憧れさえ抱いていただろう。まるで、物語の女主人公みたいだわ、と。
けれど彼女は、私が真の意味でブライアンの妻となることを阻んでいる存在だというのが現実だ。どれだけ好意を持って接しようと思っても、無関心を貫こうとしても、それは無理な話だった。
どうぞ、お二人で勝手に盛り上がってくださいな。私は私で自分の好きなように生きていきますから。
……ああ。そんな風に吹っ切ることができれば、どんなに楽なことか。
仲睦まじい夫とライラの姿を見る度に、自分の表情が険しくなっていくのを止められない。私を妻として扱わない夫に対して特別な愛情など抱いてはいないはずなのに、日毎に心が重く沈んでいく。
何故、こんなにも私は傷付いているのだろう……。
最初から、政略結婚に愛など期待していなかった。例えこちらが誠意を尽くしたとしても、相手が愛人を囲ってこちらに見向きもしない可能性を考えなかった訳ではない。
それなのに、覚悟していたはずの懸念が、いざ現実問題として突きつけられると、何故こんなに苦しいのだろう。
鬱々とした気分で目覚め、侍女の手を借りながら身支度を整える。
部屋を出て、いつものごとく仲睦まじいブライアンとライラが階段下のホールで談笑する様子を上から見下ろしていると、ふと刺すような視線を下から感じた。
視線を転じると、階下の壁際に控えている女中のマリラが、警戒するような眼差しでこちらを見上げている。
勿論それは、女中が貴族家の女主人に向けていい類のものではない。無礼だ、使用人として不適格だと即刻解雇されても仕方のないものだ。
込み上げてきた負の感情を飲み下し、私はわずかに眉を顰めてマリラを見据える。彼女は目を伏せてすぐに女中らしい態度に戻ったが、その口元が不満で醜く歪んでいるのは遠くからでも良く見えた。
彼女が何故、私にそのような態度を取るのかはよく分かっている。私がライラに危害を加えないか、ブライアンとライラとの仲を引き裂くような真似をしないか警戒しているのだ。
マリラは、ライラと親しい間柄であり、彼女に陶酔していた。それどころか、ライラが幸せになれば自分も幸せになれるのだと思い込んでいるような節がある。
そんな風に、身分違いの恋を勝手に自己投影して浮かれているのは、何もこの家の使用人だけではない。
例えば、男爵や子爵家の令嬢が、王家や公爵家の子息に見初められたいという自分の叶わない願望を、この身分違いの恋に投影しているようで、茶会や夜会で彼女らと顔を合わせると、必ず陰口を叩かれる。
『大して美しくもないくせに……』
『実家の財力と、姉君の婚家の権力を笠に着て……』
私だって好き好んでブライアンの妻になった訳じゃないと言ってやりたかった。けれど、貴族としてそんなことは口が裂けても言えるものではない。
話は戻るが、マリラは私がこの家に来た当初から、非友好的な態度だった。さすがにあからさまな反発はしない。けれど、この家に不慣れな私やユリアが困っているところを見てほくそ笑むような、陰湿さを感じることは多々あった。
そのような態度を取る使用人はマリラだけではなかった。けれど、「私はこの家の女主人よ!」などと居丈高に叫び、彼らを解雇するようなことはしたくなかった。
……夫を味方につけられない名ばかりの妻など、屋敷内でどれほどの権威を示せようか。
階段の上で立ち尽くす私に気付いて、ブライアンが怪訝な顔をしながら声を掛けてくる。
気分が優れないので、と適当に嘘を言って、私は自室に戻った。
最近、心が疲弊してきているのか、あの二人を前に平静を装うことが難しくなってきている。だからこうやって、体調不良を理由にブライアンとの食事を避けることが増えてきた。
部屋に戻ると、すかさずロアンがやってきて私を気遣ってくれる。
「旦那様が、心配しておいででした」
最初のうちは、紳士なブライアンは上辺だけでも私の事を案じてくれているのだと思っていた。けれど、それも次第に、これはロアンが主のフォローをしているだけなのだと分かってきた。
ブライアンが本当に私の事を案じているのなら、階段を駆け上がって私の顔色を確かめればいい。その目で私を見て、その耳で私の口から具合を聞けばいい。
それさえして貰えない私の価値など、所詮それほどのものなのだ。
いくら貴族として、不幸な政略結婚に耐えなければならないと覚悟していた私でも、次第に絶望感に襲われるようになった。
そもそも、ブライアンは有力貴族ではない。ただ有能な若手と評されている、見目麗しい伯爵という存在だ。しかも、その実態は、恋愛は恋愛、政略結婚は政略結婚と割り切ることもできず、自力では家計を立て直すこともできない、未熟な青年でしかない。
何故、こんな人を宰相閣下はご自分の派閥に取り込みたがっておられるのかと不思議に思う。
可能性を上げるとするなら、ブライアンが王太子殿下と親交が深く、将来王太子殿下が即位された後は重要な役職に就くと目されているからではないだろうか。
宰相閣下は王太子殿下にご自分の娘を嫁がせて後見人となっているけれど、更に次代の王の側近までご自分の息が掛かった者達で固めようとしているように思える。
だから、もし私が自棄を起こして実家に泣きつき、離縁などという事態になれば、宰相閣下の計画を狂わせたハイネル伯爵家はどのような不利益を被るか分からない。
いや、今や派閥の財源となっているハイネル伯爵家は守られるかも知れない。その代わり、私は絶対に許されないだろう。田舎の屋敷に軟禁されるか、それとも修道院送りにされるか。どちらにしても、そうなれば、時間をかけて愛を育み、幸せな家庭を築くという私の夢は叶うことはない。
ブライアンがハイネル伯爵家に頭が上がらないほどの利益を与えてもらい、宰相閣下の派閥に取り込まれる。そうする為に私が存在する。それが、私に与えられた役割なのだ。例え、その間に私の心がボロボロに壊れてしまったとしても。
……そう、分かっている。私は、淡々と私の役割を果たせばいい。
それなのに、何故こんなに辛くて苦しいのだろうか。
……虚しい。ただ、無性に虚しかった。