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昨今流行の悲劇で人気があるのは、どれだけ愛し合っていても結ばれない男女の悲哀を描いたものだ。そして、それには必ずと言っていいほど、二人の仲を邪魔する人物が現れる。
身分ある男性側には親が決めた身分の釣り合う婚約者がいて、美しい女性側は経済的な理由で富豪から無理矢理結婚を迫られる。どちらの邪魔者も、冷静に考えれば正当な主張をしているにも関わらず、観客からは蛇蝎のごとく嫌われる、ある意味哀れな存在だ。
そう。私も、世間一般の人達と同様、その邪魔者達が大嫌いだった。まさか、自分が彼らと同じ立場になるだなんて、その時は想像もしていなかった。
しかも、更に悪いことに、私はブライアンにとって権力によって強制された身分ある婚約者であると同時に、ステイフォート伯爵家に多額の持参金と利権をもたらす存在。つまり、金と権力で愛する二人の恋路を邪魔する、最悪の人物だった。
ブライアンの優秀さと人柄で誤魔化せてはいるものの、ステイフォート伯爵家は、実はあまり裕福ではない。それは、成人したばかりの息子に伯爵位を継がせて早々に隠居した先代に原因があるらしいが、今のところ詳しい話は分からない。
ともかく、私が夫にとって寝室さえ共にしたくない相手だということは、昨晩だけでよく分かった。
こんな私だけれど、実はほんの少しだけ、淡い希望を抱いていたのだ。今はライラに心を奪われているブライアンだけれど、夫婦として過ごしているうちに、次第に私に情が移り、いつかは私を妻として愛するようになるのではないか、と。
……馬鹿だわ、私。
清いままで目覚めた私は、愚かな夢を見ていた自分を責めることで泣かずに済んだ。もし、結局寝室を訪れることのなかったブライアンを責めていたら、きっと涙を堪えることはできなかっただろう。
起きた私の支度を整える為に、侍女が入室してくる。唯一、実家のハイネル伯爵家から連れてきたユリアは、私よりも青褪めて泣きそうな顔をしていた。
「……お嬢様」
「止めて。そんな顔をしないで。泣いちゃいそうになるでしょう?」
「申し訳ございません」
きっと、ユリアは一晩中、気を揉んでいたに違いない。夫であるブライアンが、この寝室ではなくどこで夜を過ごしたのか、家中の者なら知らぬ者はいないだろう。
着る必要もなかった薄地の大胆な寝間着を脱いで、かっちりとドレスを着こむ。
そう。今日から私はこの家の女主人になるのだから、こんなことで一々落ち込んでなどいられないのだ。
意味ありげに視線を交わす女中達の間を、真っ直ぐ顔を上げて堂々と歩く。意識してそうしなければ、自室から一歩も外に出られないくらい、心は打ちのめされていた。
「おはようございます、奥様」
使用人達からそう声を掛けられる度、「奥様?」と笑い飛ばしたくなる自分がいる。私が本当の意味でブライアンと夫婦になってなどいないと知っているはずなのに、よくも白々しく私の事をそう呼べるものだと泣き喚きたくなるのを必死で堪えながら、この家の女主人に相応しい余裕の笑みを浮かべる。
食堂へと足を踏み入れると、丁度、ブライアンがライラと何か言葉を交わしていた。二人のお互いを見つめる視線に籠る熱を見れば、ただの主人と従僕との間柄ではないと誰にでも分かる。そんな光景を堂々と見せつけられて、傷つかない訳がない。
私が食堂へ入ってきたのに気付いて振り返ったブライアンは、これまでと同じ紳士的な笑みを浮かべた。
そう。初夜をすっぽかしたことなど、まるで気にした様子もなく。
よく眠れたか、何か不足はないか、家の者に不満はないか。ブライアンは、まるでお客様を接待しているかのように私に接する。
一晩中、あなたがくるのをずっと待っておりましたわ。
不足? あなたの私に対する愛情でしょうか。
何が不満かと言えば、あなたのそのどこまでも他人行儀な態度ですね。
口に出して言えない言葉の代わりに、必死の努力で笑みを浮かべていた。
朝食を終えて席を立った時、何を食べても一つも味が感じられなかったことに気付いた。そして、やたら重たくなっただけの胃を押えて、私は籠るべき自分の巣に帰ったのだった。
ステイフォート伯爵家に嫁いで数日経つと、少しずつこの家の内情が分かってきた。
まず、ハイネル伯爵家同様、由緒ある伯爵家であるステイフォートの財政が厳しくなった理由だが、これはブライアンの母が落ちぶれた男爵家であることが発端だった。ブライアンの父である先代伯爵は、愛しい妻の実家の窮状を救うべく援助し続けた。けれど、元々とりたてて裕福でもなかったステイフォート伯爵家は、長年に渡るその出費のせいで新たな事業に乗り出す機会を失い、次第に財政を悪化させていったのだ。
それを教えてくれたのは、この家の執事ロアンだった。
彼は、自分の部下でもある従僕のライラがブライアンに重用されていることで、執事としてのプライドをいたく傷つけられていた。表立っては不満をおくびにも出さない彼だったが、主家と自分の行く末に大きな不安を抱いているのはよく分かった。
なぜ、彼が夫に愛されることもなく放置されている妻の私にそのような話を聞かせてくれたのか。それは、ひとえに私がこの家にとっての金蔓であり、味方に引き入れたい人物だからだ。
私の父は、同じ男爵家でも豪商あがりの裕福な家から妻を娶った。それが、私の母だ。莫大な持参金と旨味のある利権を手に入れ、ハイネル伯爵家は平凡な貴族家から一気に飛躍した。娘を嫁がせることで、侯爵家や宰相家とも縁を結んだ。ブライアンの父と私の父とは、全く正反対の人物なのだ。
私は、裕福な実家から多額の持参金を携え、姉達の婚家から権力を、母の実家から利権を引き出すことのできる、ステイフォート伯爵家にとっては救いの神のような存在なのだ。
そして、ロアンはその価値を正しく理解している人物の一人だった。私を女主人として立てることで味方に引き入れ、この家を守ろうとしているのだ。
「旦那様は、ライラの実家にも支援をされております」
ロアンが言うには、ライラの実家は窮するあまり、貴族の称号を売って平民となった元子爵家なのだそうだ。
ブライアンがライラを伴って外出している隙に、ロアンはこの家の帳簿を見せてくれた。
「……この状況を、ブライアン様は知っていて放置しているとでも言うの?」
地方の別宅に妻と共に移り住んだ先代伯爵は、今でも妻の実家に支援を続けている。いくらブライアンが有能だといっても、収入より支出が上回れば窮する一方だ。
それともまさか、全て私を娶ることで解決すると高を括っているのだろうか。それで、あの扱いとは。さすがに呆れ返って物が言えない。
……ライラ。全ては、あの女が元凶なのよ。
ふと、そんな思いが脳裏を過った。あの女さえいなければ、ブライアンは私を妻として扱ってくれるだろうし、この家の窮状は少しでもマシになるだろうし、ロアンも執事としての矜持を取り戻すことができるだろう。
けれど、私は慌ててその考えを胸の奥に押し込めた。
そんな激情に駆られるがまま突っ走れば、物語のお邪魔虫のように哀れな末路を辿るのは明らかだ。夫に愛されないだけならまだしも、誰からも蛇蝎のごとく嫌われた挙句、不幸になっても同情されるどころか当然の報いだと笑われるような人生など送りたくはない。
けれど、現実は私が予想していたよりも、はるかに厳しいものだった。




