13.ライラー2
ブライアンの結婚相手であるアンネローゼ様は、身に付けている高価なものに霞んでしまうような凡庸な方だった。使用人に対してさえ思っていることを口にできないほど、内気で陰気な方。あれでは、心配せずともブライアンが彼女に心を移すことはないだろう。
正妻にいびり出されることを危惧し、どう対抗しようかと気負っていた私は、正直拍子抜けしてしまった。
「もし、アンネローゼ様に何か言われたら、理不尽な虐めを受けたと旦那様に申し上げればいいのよ。旦那様なら、絶対にあなたの味方になってくれるから」
マリラにはそう言われたが、そんな機会は訪れなかった。
アンネローゼ様は、例え食堂で私が見せつけるようにブライアンと会話をしていても、何も言わずに黙々と食事を終え、さっさと席を立ってしまう。
例えどんな相手であっても、そんな態度を取られたら、多少なりとも気にするものだ。ブライアンは、彼女に素っ気ない態度を取られる度に、ほんの僅かに眉を顰め、小さく溜息を吐いた。そして、私に対していつになく情熱的に愛を囁くのだ。それが、まるで寂しさを紛らわせているように思えて、その度に私の心は乱れた。
しばらくして、アンネローゼ様は自室を移りたいと言い出した。本来正妻がいるべき、主寝室と内ドアで繋がっている今の部屋から、遠く離れた奥の部屋を改装して移りたいと。それは、アンネローゼ様の姉上様が訪ねてきた日の夕食時のことだった。
「できるだけのことをして部屋を整えたつもりだったが、ハイネル伯爵家のご令嬢にはお気に召さなかったようだな」
その夜、ずっと不機嫌だったブライアンがふとそう呟いた。
ぜいたくな暮らしをしてきた令嬢には、先代の妻のおさがりや時代遅れの古びたものでは我慢ならなかったのだろうと、ブライアンは自分に言い聞かせようとするように繰り返し呟く。
けれど、きっと内心では、完全に夫婦としての関係拒否をあちら側から言い渡されたと受け止めていたに違いない。
ブライアンは、結婚後も、アンネローゼ様と寝室を共にしたことが無かった。それは、私を愛しているのに、他の女性を抱くことなどできないという彼の純粋さだった。
けれど、自分の意志でそうするのと、相手から拒否されるのとは違う。求められれば、それはそれで困ったことになっただろう。けれど、当然相手は求めているだろうと思い込んでいたのに、呆気なく背を向けられたのだ。夫として、良い気などしないだろう。
「あの商人が出入りするようになってから、奥様は随分と明るくなられた」
使用人達がそう言うのを耳にする度、ブライアンは目に見えて不機嫌になった。
自分には苦言や本当に必要に駆られた時だけ、わざとらしい演技を交えて申し立ててくるだけ。あとは完全に自分に無関心なアンネローゼ様に、ブライアンの心が乱されているのは手に取るように分かった。
このまま、関係が拗れてしまえ。
日々増えていく仕事に疲れ切って、何もしないうちに眠ってしまうブライアンの髪を撫でながら、毎夜、呪いの様に心の中で呟く。
結婚後も、私は堂々とブライアンの従者として常に傍にいた。それが人の口から広まるうちに、様々に脚色されて、アンネローゼ様の耳にも入ることを見越した上で。
ステイフォート伯爵家を経済的に支援する為、アンネローゼ様のお父上であるハイネル伯爵がブライアンと会うことが増えた。私の存在について、遠回しに苦言を呈するハイネル伯爵に恐縮しながらも、私は決してブライアンに同行することを止めなかった。商談の席からは外れてくれと言われ、別室で待機することがあっても、私は常にブライアンと共にいた。
そうやって常に傍にいなければ、負けてしまいそうだったからだ。生まれた時から、何不自由なく幸せに育った、あのただただ凡庸なアンネローゼ様に。
「あなたが着れば、さぞかし素敵でしょうにね」
アンネローゼ様が身に付けている美しい衣装を見る度に、マリラがそう囁く。
そうだ。私の方がずっと美しいのだし、当然あの衣装も似合うに決まっている。私の方がずっとブライアンを幸せにできる。なのに、爵位を手放すような貧しい貴族家に生まれてきたばかりに、愛し合う人との仲を引き裂かれ、全てを奪われてしまうのか。
……そんなのは許せない。
けれど、日が経つにつれ、優しかった使用人達の態度が変わってきた。
アンネローゼ様は、出入りの商人を使って使用人達に金品を与えて抱き込み、私を追い出しにかかってきたのだ。
使用人達に堂々と意見も言えない内気で陰気な女性だと見くびっていたが、身内の商人を使い、金にものを言わせて人心を抱き込むようなあざとい真似をするだなんて、さすがはハイネル伯爵家の娘だ。
マリラまでその金品を受け取っていたと知った時には、さすがにショックだった。きっと彼女は、ブライアンが私に愛情を感じなくなれば、すぐに掌を返すだろう。
言い知れない恐怖が、背筋を這い上ってきた。
ある日、よりにもよって、アンネローゼ様の前で、突然訪ねてきた先代伯爵に罵倒された。
面と向かって言われなくとも、私がこの家にとって邪魔者であることはとっくに気付いていた。アンネローゼ様が嫁いできて、そのお蔭でステイフォート伯爵家が潤い始めた時から、私はこの家にとって厄介者でしかなかったのだ。
ただ、アンネローゼ様が私の存在を容認してくれていたから、私はこの家に、ブライアンの傍にいられたのだ。彼女が私を追い出そうとすれば、今はもう、ブライアンも抵抗し続けることなどできないだろう。
そしてその夜。私の部屋を訪ねてきたブライアンは、思い詰めたような顔をしていた。
「従僕を辞めて、この屋敷を出てくれないか。街に別宅を用意する。君の事は、一生大切にする。君の家族の支援も続ける。愛しているのは君だけだ。だから……」
私は、かつてアンネローゼ様が嫁いで来るときのような、身を引くといったことは言えなかった。あの時の様に引き留めて貰える自信がなかったのだ。
……それに、やりようによっては、ブライアンを別宅へ入り浸たりにさせ、アンネローゼ様を精神的に痛めつけることもできる。
私を追い出しにかかったということは、いくら無関心を装っていても、アンネローゼ様とてブライアンの妻としてのプライドはあるのだろう。そのプライドをズタズタにしてやれば、もしかしたら彼女の方から別れを決心してくれるかも知れない。
私は悔しさを飲み込みながら、表面上は健気で一途な風を装って、静かにブライアンの提案を受け入れた。
愛人、などという存在になど、なりたかった訳ではない。ただ、ブライアンの心を繋ぎ止め、アンネローゼ様との夫婦関係を破滅させる為には、こうするしかない。
けれど、別宅に移ってすぐに、その虚しさに気付いた。
私がやっていることは、一体何なのだろう。私はブライアンを愛しているから、アンネローゼ様に彼を奪われるのが嫌なのか。それとも、これまでの人生で味わってきた屈辱を、アンネローゼ様で晴らそうとしているだけなのか。
ブライアンの仕事はますます忙しくなり、別宅へやってくるのも真夜中近く、来てすぐに眠ってしまい、早朝屋敷に帰るという日々が続いた。
やることもなく、着慣れない女性物の綺麗な衣服を身に付け、し慣れない化粧をして、ひたすらブライアンの訪れを待つ日々。
その間も、もしかしたら今頃屋敷に戻っているかも知れないという不安が襲ってくる。私の知らないところで、二人はとっくに本当の夫婦になっているのではないか……?
いや、あの二人が、そう簡単に歩み寄るはずがない。それに、ブライアンがこの私を差し置いて、アンネローゼ様に心奪われるはずはない。
そう思っているのに、ただ焦燥感だけが募っていく。
私がブライアンを愛しいと思う気持ちは、日々を重ねる中で、当初の純粋なものとは違い、次第に歪な物になっていた。
ブライアンがアンネローゼ様と結婚したことで、ブライアンに対しては一度裏切られたという思いは消えず、アンネローゼ様にはブライアンや今の生活を奪われるという恐怖と憎しみが絶えず渦巻いている。その中で、私のブライアンへの愛は、いつしかアンネローゼ様への対抗心へと変化していった。
そして、その負の感情に浸りきった自分に、完全に嫌気が差していた。
その人と再会したのは、気晴らしに街を散策していた時だった。
かつて、従僕だった時、商談中のブライアンを待つ間に顔見知りになった、異国の商人に雇われているというファルクという男だった。
気さくな性格で、常に自信に満ちてキラキラとした目をしている彼と話していると、まるで自分が異国の地で生き生きと暮らしているような気分になった。
「僕なら、君をもっと幸せにしてやる。こんな日陰の身になどしておかない」
彼は、私がブライアンの愛人であると知っていながら、堂々と私を口説いた。時に強引過ぎると思えるようなその誘惑に、私は冷淡に突き放しながらも、嫌な気持ちがしない自分に気付いていた。
彼は、まるで出会った頃のブライアンを思い出させるような情熱を持っていた。今の、私への義理も、アンネローゼ様への恩も無碍にできず、煮え切らない態度を取り続けるブライアンは、あの頃とはすっかり変わってしまった。
私はずっと、ブライアンは私の運命の人だと思っていた。だから、どれだけ月日を重ねても、どんなことがあろうとも、お互いの愛情は変わることはないと思っていた。けれど、私のブライアンへの思いが、アンネローゼ様の出現によって歪んでしまったように、彼の私に対する愛も変質してしまったのかも知れない。
やんちゃな子供をあやすように、会うたびに熱い思いをぶつけてくるファルクをあしらいながら、知らず知らずのうちに私の心は次第に彼へと傾いていた。
ある日、訪ねてきたファルクは突然、真剣な顔をしてこう言った。
「今勤めている商会を辞めて、祖国で独立する。一緒に来てくれないか?」
そう言われた時、目の前がパッと開けたような気がした。
私は、ただ黙って愛する人の訪れを待ち続ける愛人になりたかった訳じゃない。愛する人の傍にいて、その人の力となって、共に生きて行きたいのだ。
もうブライアンとは無理だけれど、ファルクとならそれが出来るかもしれない。
ブライアンの元を離れるのに、躊躇いがなかった訳じゃなかった。あんなに愛し合って、私の為にあれだけ尽くしてくれたブライアンには感謝している。けれど、もう自分の中の負の感情に支配されて、無駄な対抗心を燃やし、それを愛と呼ぶのにはもう疲れてしまった。
ファルクは、私の実家にも支援すると言ってくれた。当面の生活費はまとめて渡し、商売が軌道に乗ったら異国からでも家族に送金できると。それが、最終的に私の背中を押した。
面と向かって別れを告げ、ブライアンに縋られては決心が鈍る。だから、自分の気持ちを長い手紙にしたためた。
マリラに休暇を与え、別宅に一人になると、示し合わせていた通りにファルクが裏口に馬車を横づけする。
ブライアンが来た時にすぐ分かるように、いつも彼が座るソファの前のテーブルに手紙を置いた。
……これで、本当にいいの?
この期に及んでも、私を躊躇わせる感情の大半が、アンネローゼ様に屈するのは嫌だという思いだった。
富と権力で、私の愛しい人と、私が幸せになるはずだった場所を奪った人。私がいなくなれば、きっとアンネローゼ様はブライアンを取り込んでしまう。使用人達の心を取り込んだように。
「行くよ」
そう声を掛けられて、ハッとして振り向くと、ファルクが眩しい笑顔を浮かべて手を差し伸べていた。
今、この手を取らなければ、私は自分の中に渦巻いている負の感情に沈んでしまう。
最後に、ブライアンに触れるようにそっとソファの座面を撫でると、私は顔を上げて、ファルクの手を取った。




