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11.

 ライラがいなくなったことで、お邪魔虫な人生はお役御免になったと思っていたのだが、まさかこういう形で引導を渡されるとは思ってもみなかった。

「……なるほど。財政を立て直せたから、私はもうお払い箱ですか」

 自嘲するようにそう吐き出すと、不意に涙が溢れそうになった。

 今後どうするのか決める権利があると言っておきながら、私が何も言わないうちに結論を出してしまった彼に、怒りを通り越して脱力感すら覚えた。

「そうではない。私は……」

 慌てて首を横に振るブライアンの言葉を遮るように、私は声を荒げた。

「いいえ、そうではありませんか。港湾整備計画はもう国王陛下の承認を受けて動き始めています。ステイフォート伯爵家には、輝かしい未来が約束されています。だから、愛のない結婚をした妻はもう必要ないのですね」

 あなたの気持ちはよく分かりました、と私はベッドから立ち上がろうとした。左顔面が酷く痛んで、頭がフラフラする。

「いや、待ってくれ、アンネローゼ」

 慌てたようにベッドに押し戻されて、ブライアンを見上げる。ここまで至近距離から彼を見るのは、結婚式の時以来かも知れない。

「まだ何か?」

「誰も、君が必要ないだなんて一言も言っていない」

 何を言っているのだ、この人は。別れようと言ったのはそちらではないか。これ以上、他に何があるというのだろう。

 訝し気に眉を顰める私を宥めるように、ブライアンは私の手を取り、何度も撫でた。

「けれど、これまで夫としてあるまじき事ばかりしておきながら、君にこれからも妻のままでいてくれと願うのは、あまりに虫のいい話だ。そんなことは許されるべきではない。そうだろう?」

 許して欲しいのか、それとも自分の主張が正しいと言いたいのか、ブライアンは上目遣いに私の顔色を窺っている。

「……それとも、こんな愚かな私でも、傍にいて欲しいと言ったら、君はここにいてくれるのか?」

 期待など一切していないと言わんばかりにぶっきらぼうに言い放った言葉とは裏腹に、ブライアンは縋るように私を見ていた。

 ……可哀想な人だ。

 その時、私の胸に湧き上がってきたのは、愛しさではなく憐みだった。愛人に捨てられ、今まで冷遇していた妻に縋り付くその姿の、何と哀れなことか。

 確かに、あれだけ目の前で愛人との仲を見せつけられ、妻として扱ってくれなかったのに、その愛人が去ったからとこちらにすり寄って来られても、嬉しいはずがない。寧ろ、こちらから願い下げだ。

 けれど、果たしてこの手を振りほどいて、私を待つのはどんな人生だろう。

 世の中に、完璧な理想通りの夫などいるのだろうか。結婚まで恋もせず、政略結婚の相手を唯一無二の存在として愛し、相手の望むものを全て与えてくれる。そんな人が、果たしてこの世にどれだけ存在するというのだろう。

 ブライアンは、理想とはほど遠い夫だった。確かに、彼よりましな人ならいくらでもいるだろう。けれど、仮にブライアンと別れて父の勧める人と再婚するとして、その人が彼よりましな人だという保証はどこにもない。再婚の相手となれば、初婚よりはるかに条件は悪くなる。

 お互いに政略結婚で、愛情を持っていた訳でもなく、彼は他に結婚したいほど愛する人をすでに家に迎えていたのに、縁談は断れないほど強い権力によって推し進められた。そんな背景を考えれば、ただ感情的に彼の思いを拒否してはいけないのではないだろうか。

「そうですね。あなたが私を必要としてくれているのなら」

「……っ」

 声を詰まらせてブライアンは俯いた。

「……本当に、いいのか?」

 信じられないものを見るように目を見開いたブライアンに、少しだけ不安になる。

「もしかして、離縁したいと言った方が良かったのですか?」

「いや、いや! そうじゃない。……けれど、引き留めたところで、思いとどまってくれるとは思っていなかった」

 まるで腰が抜けたかのように床に座り込んでいるブライアンは、長身の美男子であるにも関わらず、ひどく滑稽に見えた。

「でも、何度も聞いてすまないが、本当にいいのか? 私は君にあんな酷い事をしたのに」

「愛していなかったのはお互い様ですもの」

 自分の気持ちを表す言葉が見つからず、つい口をついて出てきたのがその言葉だった。

 虚を突かれたような顔になったブライアンは、しばらく困ったように頭を掻きながら苦笑していたが、やがて表情を引き締めてこちらに向き直った。

「本当に、すまなかった。これまでのことが許されるとは思っていない。けれど、もし君さえよければ、私に償う機会を与えてくれないか?」

「ええ、分かりました。では、私の夢を叶えてくれますか?」

「夢?」

 それはどんな、と身を乗り出すブライアンに、私は告げた。もう叶うことなどないと諦めながら、捨てきれずにいた甘い夢を。

「了解した」

 ブライアンは、これまで見たこともないほど甘い笑顔を浮かべ、遠慮がちにそっと私の肩を抱いた。

 初めて感じる父以外の男性の温もりに、鼓動が激しくなり、顔が熱くなる。急に恥ずかしくなってしまい、照れ隠しに私はつい生意気な口を利いた。

「……あの。一つ先に忠告をしておきますけれど、私は金銭で動かせるような女ではありませんからね?」

 すると、ブライアンは潤んだ目を細めて微笑んだ。

「ああ、それは実にありがたい」


 翌日、義父母が揃って屋敷を訪ねてきた。

 私は見事に紫色に腫れた左顔面を布で覆い、ブライアンに肩を抱かれて出迎えた。そうしなければ、昨日の今日で、義父を見た途端に恐怖で座り込んでしまいそうだったからだ。

 ところが、予想外のことが起きた。馬車のドアが開き、まず降りてきたのは義母だった。私の顔を見て驚きに顔を歪め、ひとしきり詫びた義母は、背後で開いたままの馬車のドアを振り返った。

「あなた。何をしているのです。大人しく出てきて、アンネローゼにお詫びなさいませ」

 呼びかけに答えて、まるで叱られた子供のような表情を浮かべながら、義父は渋々馬車を降りてきた。これにはさすがに驚き、私はブライアンと目を丸くしながら視線を交わした。

「……すまなかった。義理の娘にこんな乱暴な真似をしてしまい、深く反省している。どうか許してくれないか」

 そう言って、義父は体格のいい背を丸めて頭を下げた。


 義母は、実家の爵位を守る為に義父が私に怪我を負わせたと知った途端、これまでずっと心の奥に押し込めてきた感情が爆発したのだという。

「私、旦那様に言ったのよ。そんなに私の愛が信じられないのかって」

 おっとりとした口調ながら、以前よりも随分と力強い声でそう言うと、義母はソファに小さくなって座っている義父をちらりと睨んだ。

 実家を守らなければ、妻の心は繋ぎ止められない。そう頑なに思い込んでいる義父は、義母が支援を打ち止めにして欲しいと願っても、その度に義母が自分の元を去ろうとしていると疑って怒り狂った。それが繰り返され、いつしか義母は逆らう事を止めてしまった。

 けれど、そのせいで息子の妻にまで害が及んだと聞いて、怯えて生きていてはいけないと意を決したのだという。

「いつもならすぐに怖くなって黙ってしまうのだけれど、頑張って旦那様としっかりお話したの。そうしたら、ようやく分かっていただけたのよ。大体、私が旦那様の元を去って、どこへ帰ると言うのですか。あの兄のところへなど無理ですし、こんな年をとった女を迎えてくれる人などいるはずもないのに」

 呆れたように義母が溜息を吐くと、義父は気まずそうに肩を竦める。

「まあまあ。そうだ、母上。今後、父上と喧嘩して家を飛び出したくなったら、私達のところへ来るといい」

 まるで、何かの恨みを晴らすかのように、ブライアンは意地悪そうな笑顔を浮かべる。

「まあ! それは頼もしいわ」

 嬉しそうに微笑んだ義母は、義父が泣きそうな顔をしているのを見て首を横に振った。

「でも、そんなことをしたら、旦那様が可哀想だわ。だから、どうしても耐えられない時だけお願いしますわね」

 そして、義父母は、街の発展に伴って人口流出が続いている農村部への対策に協力することを約束して帰って行った。


 それから数日後、父とルークがステイフォート伯爵家へやってきた。私が怪我をしたことと、それに至るまでの全てを説明する為に、ブライアンが呼んだのだ。

 ブライアンはこれまでのことを全て正直に話し、苦虫を潰したような表情の父に何度も頭を下げ、これからは心を入れ替えて私を幸せにすると誓った。

 勿論父は、そんな言葉は信じられない、と激怒した。二人で父を説得し、もう一度やり直したいという私の言葉に、最終的に父は納得してくれたが、何かあればすぐに娘を連れ帰ると脅すことを忘れなかった。


 父とブライアンが港湾整備計画について話し合うことがあると別室に移動すると、私はルークと客間に残った。

「君の父上は、まるで何もかも今初めて知ったように怒っていたけれど、ある程度は承知していたんだよ。彼が愛人を連れて商談に来ることにも苦言を呈していたしね」

 それは、私にも分かっていた。

 父がブライアンとライラの仲を知っていて私の苦境を放置していたのは、政略結婚である以上、あの程度のことは自力で乗り越えて然るべきだと思っていたからだ。勿論、経済的な支援はしっかりとしてくれたし、そのお蔭で私はこの家で女主人として認められることになったのだから、父には感謝してもしきれない。

 ルークは、フレニーズ男爵家の件がどうなったか教えてくれた。結局、爵位はとある豪商に買い取られた。返せる当てもなく借金を重ねて遊興費に充てていた義母の兄である元男爵は、近く詐欺などの罪で逮捕される予定らしい。

「……それから、彼女のことだけどね」

 不意にルークは顔を寄せると、意味ありげに私の耳元で囁いた。

「アンネローゼは、彼女に幸せになってもらいたい? それとも、仕返ししてやりたい?」

「えっ?」

 もしかして、ライラが愛人と逃げた件に、ルークが絡んでいたとでもいうのだろうか。

 けれど、有り得ないことではない。商人は、誰がどこでどういう繋がりを持っているか分からない。異国の羽振りのいい商人に協力を仰げば、きっと……。

「……そうね。彼女にも彼女なりの苦労があったと思うの。だから、幸せになって欲しいわ」

 結果として、私が嫁いできたことで、彼女とブライアンとの仲が終わってしまったことには違いはない。せめて、彼女が新しい伴侶と幸せな人生を歩んでくれれば、私も安心してブライアンとやり直せる。

 すると、ルークは心の読めない笑顔を浮かべて頷いた。

「やっぱり、アンネローゼは優しいね」

 私なら、とてもそんな寛大な判断はできないけどね、と呟いたルークは、爽やかな笑顔の奥に、やり手の商人らしい穏やかならない光を垣間見せた。


 私とブライアンは、ようやく夫婦として歩み始めた。

 やはり、これまでのことが尾を引いて、お互い努力はしても、まだ理想的な温かい家庭を築くには至っていない。依然、私の事を、愛人を追い出した恐ろしい妻だと囁く声は止まないし、愛人に捨てられて妻に乗り換えた情けない男だとブライアンを揶揄する声もある。

 それでも今は、物語のようなお邪魔虫が辿る哀れな末路とは違う、幸せな未来に向かっていると実感できる。

 事実を知る人からは、よくあんな仕打ちを受けて我慢していられるなと呆れられる。

 私自身も、実は良く分からない。ライラに捨てられたブライアンが可哀想だと情に流されただけなのかも知れないし、償いたいという彼を信じてみたかったのかも知れない。でも、一番大きかったのは、ずっと抱いていた夢が叶うかもしれないという期待だった。

 宣言通り、ブライアンは献身的な夫であろうと努力してくれている。そんな彼に応えたいという思いが、私の中で日に日に育っている。

 まだ二人の間には恋人同士のような愛はない。けれど、その代わり、共にステイフォート伯爵家を支えて行く同志のような感情は芽生え始めている。いつかはそれが、家族愛へと変化していくのではないだろうか。

 そう感じられるからこそ、私はこの先もブライアンの傍で、彼を支えて生きて行こうと思う。

 とりあえず、アンネローゼはこんな感じに落ち着きました。

 読んでいただき、たくさん感想をいただきまして、ありがとうございます。

 今後、他者視点での補足的なお話が書けたら追加投稿したいと思っております。

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