10.
意識を取り戻すと当時に、顔の左側がひどく痛んだ。ゆっくりと目を開けると、左側だけやけに視界が狭い。
「……ああ、奥様」
ユリアが縋り付くように身を屈め、私の手を取った。
ここは私の部屋だ。ということは、私は義父に連れて行かれずに済んだらしい。
ユリアが泣きながら説明してくれた。
騒ぎを聞いて駆けつけた使用人達が総出で義父を取り押さえ、私を助け出してくれたのだという。けれど、私は力任せに馬車に放り込まれた時に座席の角に左顔面を打ち付けて気を失っており、診察した医師からは、しばらく左顔面は紫色に腫れあがるだろうと診断されたのだそうだ。
「それで、お義父様は?」
「その後、すぐにお帰りになった旦那様とも大喧嘩をされて、怒ったまま帰っていかれました」
「……そう」
ブライアンは、すでに義父と私が揉めたことを知っているのか。
「あの、奥様。目を覚ましたらすぐに知らせるようにと旦那様から言い使っておりますが、よろしいでしょうか」
ユリアが遠慮がちに問いかけてくる。私達のこれまでの関係を目の当たりにしてきたユリアは、きっと私が会いたくないと言えば、ブライアンにまだ目覚めないと嘘を吐いてくれるだろう。
正直、あんな恐怖を味わった後で、ブライアンと会うのは精神的に厳しい。
彼は私に何の用があるのだろうか。何といって父を怒らせたのだと責められるのではないだろうか。義母の実家の危機を救うのに非協力的な態度を取ったと、非難されるのではないだろうか。
そう思うと、よほど心が弱っていたのか、彼の顔を見る前から涙が込み上げてきた。
「奥様、無理をなさらないでください。お目覚めになったことはもうしばらく黙っておきますから」
「……いいえ。いいのよ、ユリア」
呼んできて頂戴、と私は縋るように手を握ってくれているユリアに、首を横に振った。
辛いことを先延ばしにしても、その間の苦しさが長く続くだけだ。
部屋に足を踏み入れたブライアンは、私を見るなり顔を顰めた。
「……すまない。許してくれ」
ベッドサイドに膝を着き、叱られた子供のようにブライアンは頭を垂れる。そして、ポケットから取り出したハンカチを差し出し、私に涙を拭くよう促した。
「父が、君に暴力を振るったこと、本当に申し訳ないと思う。あの人は、昔から自分の思い通りにならないと、激昂する悪い癖がある。特に、女性に反抗されると手が付けられない。年をとれば少しは落ち着くかと思っていたが、ますます酷くなっているようだ」
ふと、以前この屋敷を訪ねてきた義母の様子を思い出した。それで、義母はあんな風に義父に怯え、現実逃避をしているのだろうか。
「何故、そこまでしてお義父様は、お義母様の実家の爵位を守りたがっておられるのですか?」
理不尽に暴言を浴びせられ、危うく力ずくで拉致されるところだった私には、その理由を知る権利があるはずだ。
震える声でそう訊ねた私に、ブライアンは一つ大きく息を吐いた。
「正直に、全てを話そう。君が目覚めたらそうしようと思っていた。君には、全てを知る権利がある。その上で、今後どうするのか決める権利も」
二十数年前。まだ若き当主だった義父は、当時ステイフォート伯爵家に侍女として雇われていた義母に、一方的に恋心を抱いた。
雇い主と使用人という立場の差があるとはいえ、義母は落ちぶれてはいても貴族だった。身分の差という障壁は、平民の娘を妻にと望むよりもずっと低かった。
問題だったのは、義母の方に全くその気がなかったことだった。当時、他に好いている男がいるという噂もあった。
そこで、義父は困窮する義母の実家フレニーズ男爵家を支援することを条件に、半ば強引に義母を手に入れた。昔から放蕩者だった義母の兄は、金で義母を売ったのだ。
それから、義母は完全に義父の言いなりだった。息子のブライアンは、まるで暴君のような父と、奴隷のような母という歪んだ夫婦関係を見て育った。
「あんな男にはなりたくないと思う一方で、父の血がこの身に半分流れているかと思うと、恐ろしくて仕方がなかった」
そう吐き出したブライアンの表情は苦悶に満ちていた。
ふと、以前義母が私に、あなたは私とは違うからきっと大丈夫だと言った言葉を思い出した。あれは、ただ私が強いから何でも耐えられるという意味ではなく、義母のような弱い立場ではないと言いたかったのではないだろうか。
騎士団に入隊できる年齢になると、ブライアンはまるで家族から逃げるように家を出た。騎士となり、寄宿舎生活を送っていた彼は、そこで運命的な出会いを果たす。それが、ライラだった。
「正直に言おう。私は、ライラを愛していた」
彼女に捨てられた彼がそう告白する姿は、痛々しくて見ていられなかった。
今から五年ほど前に起きた他国との軍事衝突の際、ブライアンはライラに命を救われた。その恩もあって、最初は経済的に困っているという彼女を助けたいという思いから、金銭的な支援をするようになった。そして、やがてお互いに惹かれあうようになり、男女の関係へと発展した。
しかし、ステイフォート伯爵家の財政が行き詰まり、ブライアンは父から半ばお荷物を押し付けられるように爵位を継ぎ、騎士団を離れることになった。けれど、ライラとは離れたくない。その気持ちは、彼女も同じだった。財政を立て直して落ち着いたら妻にするつもりで、ブライアンはライラを家に迎え入れた。
ライラはステイフォート伯爵家の窮状を知り、自分が従僕として働くので、実家への支援を続けて欲しいと願い出た。勿論、ライラが従僕として得る給金など、ブライアンが支援してきた額には到底及ばない。けれど、ブライアンはそれを彼女には言わず、その願いを受け入れた。理由は唯一つ。彼女に傍にいて欲しかったからだ。
「けれど、今思えば、私は父と同じことをしていたんだ。支援を打ち切って、ライラが自分から離れて行くことが怖かった。……今となれば、彼女が本当に私の事を愛してくれていたのかも分からない」
頭を抱え、肩を震わせるブライアンの、そんな風に弱さを曝け出した姿を、私はこれまで見たことがなかった。
「……それでは、私との結婚を受け入れたのも、その支援を続ける為ですか? だとしたら、本末転倒でしたわね。結果として、ライラが去ってしまう原因になってしまったのですから」
顔を伏せたままのブライアンに投げかけた言葉は、自分でも驚くほど冷ややかだった。
「結婚を決めたのは父だ。あの人は、自分さえよければそれでいいんだ」
そうして、私は昼間、義父から浴びせられた言葉の意味を知った。
義父は、期待をかけていたブライアンが、いつまで経ってもステイフォート伯爵家の窮状を打開できないことに苛立っていた。このままでは、自分がフレニーズ男爵家へ支援を続けることができなくなってしまう。そこで、ブライアンに黙って勝手に結婚相手を探し始めた。息子に、結婚を望むほど愛している人がいるのを知っていながら。
父が勝手にまとめてきた縁談を知り、ブライアンは激しく抵抗した。けれど、その相手が宰相閣下の元で今や飛ぶ鳥を落とす勢いのハイネル伯爵家だと知って、これは断り切れないと観念した。騎士時代、ひょんな縁から親しくなった王太子殿下にも、この縁談を受けた方がいいと説得されたのが決定打となった。
それでもブライアンは、ライラがいる傍で他の女性を妻として扱うことが、どうしてもできなかった。ライラを妻にするつもりでこの屋敷に連れてきたのに、別の女性と結婚することになってしまったのだ。それは、ライラを裏切ったに等しいことだ。その上、心も体も裏切ることなど、彼は到底できなかったのだという。
それに彼には、ライラを愛しているのに、他の女性と夫婦関係になるなど、その女性、つまり私にも失礼だという思いもあった。
「本音を言えば、……私は、君が怖かった」
ブライアンは唸るようにそう言った。
ステイフォート伯爵家の命運を左右する縁談相手。しかも、裕福な家で何不自由なく育った箱入り娘。さぞかしこの家の貧しさに驚き、不満を抱いているだろうと思うと、ブライアンは恐ろしくて仕方がなかったのだ。ライラの存在もある。その不満をぶつけられるのが怖かった。不満をぶつけられても、心も金も物も、期待に添えるものを何一つ与えることもできない。
だから逃げたのだ、と彼は告白した。
「気付いたら、いつも君の前では身構えていた。情けない男だ。私は、君の夫でいる資格など無い。私がこれまでしてきた愚かな行いを、全て君の父上に報告するよ。きっと、ハイネル伯爵は君のいいようにしてくれる」
息を飲む私の目の前で、ブライアンは絞り出すような声を出した。
「……別れよう、アンネローゼ」